劇場公開日 2011年7月16日

「非・駿=吾郎」コクリコ坂から 13番目の猿さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5非・駿=吾郎

2013年8月1日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

楽しい

幸せ

 絵画を鑑賞するときに額縁の中だけでその絵を判断するのか、それとも額縁の外部も作品の一部として鑑賞するのか。もし貴方が前者のやり方でしか映画を観ないのであれば、『コクリコ坂』は驚くほどに退屈な作品になるかもしれない。同じく日常を描いた『思ひでぽろぽろ』、『耳をすませば』以上にファンタジーの要素を排したこの作品は、小学生ならば劇場で寝落ちするのではというほどに平坦な作りだからだ。しかしもし貴方が後者ならば、かつてこれほどまでにジブリ作品で思索することがあっただろうかというほどに、『コクリコ坂から』には一見平凡な作品という呈を様していながら、その中に含まれているエッセンスは驚くほどに深いということがわかるだろう。

 映画の主役は一九六三年の横浜の高校生たちということで、「ああ、また昔はよかったんだよ的なジブリ作品かぁ」と言われる方もいるかもしれないが、少し待ってほしい。今回監督を務めているのは宮崎駿ではなく、その息子、吾郎氏なのである。戦後や高度経済成長学生闘争を経験せずに、多感な青春時代をバブル景気のただ中で過ごした彼がその時代を描く、その意味を観客は考えてみるべきではないだろうか。

 例えば、取り壊しが検討されているカルチェラタンを存続させるかどうかの学生討論会で風間俊が大見得を切るシーン、岡田准一は吾郎氏に「黄金バットのようにやってくれ」と演技指導されたのだという。このシーンは吾郎氏が新たに加えた、いわば彼オリジナルのものだ。特別な意図のあるはずのここで、彼は戯画的に演じてくれと注文した。これは実に監督吾郎氏の世代としてのこの作品に対するスタンスを表す象徴的な演出だろう。彼はこのシーンで、未だ記憶として残している世代の多いあの時代を、「昔話」として再生産したのだ。演出以外にも、シーンの一つ一つを観ると分かるのだが、吾郎氏の作り出した六三年はどこかフワフワしている。海と俊、水沼の三人が都内へ行くシーンの、高度経済成長前の狭い道とゴミゴミした交通網は、公害をまき散らす未成熟な日本の一部でありながら妙なファンタジー色がある。まるで、『天空の城ラピュタ』で描かれた、荒廃した天空都市を思い起こさせるような風景だ。小熊英二の『1968』を指して「あの時代は未だ歴史になっていない」という書評が新聞に載っていたが、学者のワークに先んじて作家のアートがそれをやってのけるとは何とも感慨深い。そしてこの描写の先にあるのは、インタビューで宮崎親子が繰り返し言う「失われた可能性」(ここではあり得たかもしれない過去と解釈した方がいいのかもしれない)の、父とは違った追求の仕方だろう。

 怒り狂う王蟲に真っ向ガチンコを挑んだナウシカ、意中の男と心中覚悟でバルスったシータ、ハリウッダーもビックリのドライビングテクニックを披露したリサ、駿氏が描く失われた可能性を取り戻す女達は到底私たちが真似できないものだ。しかし『コクリコ坂から』のメルは、取りあえず部活棟の掃除から始め、それでもだめなら都内まで出かけて失われた可能性を取り戻した。大げさなアクションなどではない。彼女のひたむきな努力は、世界を変革するには日々の生活の中で当たり前のことを疎かにせずきちんと積み上げていくことが大切だということを、そして当たり前のことがあるということがいかに尊いかということを教えてくれる。才能のある親父の理想への到達方法は高すぎて実現できないもののように思えてしまうが、才能のない(吾郎氏は父親にこう言われ続けていたらしい)倅のそれは、私たちの拳の握り方、力の込め方一つで到達できるような希望がある。この親子は同じ所を見ているが、その手段においては大きな違いがあるといえないだろうか。宮崎駿氏は息子の処女作『ゲド戦記』の鑑賞中、劇場を出ていきタバコをふかしスタッフに「世界を変える気で作品を作らないとダメなんだよ!」とプリプリ怒りながら胸の内を吐露したが、「コクリコ坂」の鑑賞後にはそれはある種のすれ違いであったのでは、とも思われてしまう。

 またこの今回の『コクリコ坂から』には、意図してか否か、「ジブリ定番」といえるようなシーンがことごとく登場しないのも特徴的である。空を飛ぶシーンはもちろんのこと、力を込めたときに髪の毛や衣服が逆立つこともない(前作の「アリエッティ」ではスピラーが逆立ってましたね)。何よりも驚くべきは、宮崎駿がこだわっていたはずの食事をするシーンがないということだ。「コクリコ坂」の主人公メルはガス窯に火をつけ米櫃から米を取り出し、黙々と下宿先の住人の食事を作る。人のために何かは作るが、彼女が消費するという描写は見ることがなかった。彼女がものを食べるシーンといえば、俊に渡されたコロッケぐらいではなかっただろうか。戦後の貧しい時代を生きた父が、キャラクター達に存分に(それこそ歯茎をむき出しにして)食事をさせたにもかかわらず、満たされた時代に生きた息子は食事を作ることに重点を置いたのだ。何とも示唆的な作りのような気がしてならない。

 時代は円を描いて繰り返すが、それは同じところを繰り返すループではない。微妙に軌道を変えながら廻る螺旋のようなものだ。そしてその回転はそのうちに、初めとは全く違う場所に円を描く。今回の『コクリコ坂から』は少しづつずれ始め、やがてオリジナルへと向かおうとする、スタジオジブリの新しい時代の兆しではないだろうか。天才の子に生まれながら敢えて父の時代に切り込み自分の時代を作ろうとしている吾郎氏の、次なる挑戦に期待したい。

13番目の猿