「ええぞもっとやれ」ビー・デビル 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
ええぞもっとやれ
日本の映画監督は、女性が虐げられる映画を、好んで撮ってきました。
だもんで、女性が虐げられるような封建的な作風が「日本人が好む映画」と誤解されてしまった──わけです。
じっさいには、わたしたち日本人は、そんな作風を、好きじゃない。と思います。(すくなくともわたしはきらいです)。
むしろ、そんな旧弊な嗜好、アナクロニズムを持っている人が、映画監督になることが多い──という話だと思っています。
しばしばディスっている21世紀の女の子という、若手女性監督のオムニバス作品があります。そこで演出を仕切っている多数の「21世紀の女性」が、どんな作風かといえば、ブルセラ時代の少女とか、あるいは積み木くずしの高部知子、おさな妻の関根恵子、桃尻娘の竹田かほり、ピンクのカーテンの美保純・・・。
2019年に、20代の女性たちが集まって、よりにもよって手垢まみれの昭和を見せたのが21世紀の女の子でした。
これは映画学校の教材には日活ロマンポルノしかない──というわけではなく、がんらいセンスのない人たちが映画監督を目指す傾向がある──ということではないでしょうか。それでなければ日本映画の驚くべき画一性を説明することができません。
ちなみに、寝ても覚めてもを見て思ったのは「あれ違うぞ」です。日本映画の系譜じゃないとすぐに気づきました。逆に言えば「ザ日本映画」はみんな想定内だということです。そもそも濱口監督が影響を受けたと語っているのはジョンカサヴェテスのハズバンズです。系譜とは違うからこそポンジュノ監督がインタビューしたいと言ってきたわけです。
whoやiocやノーベル賞など、世の中のあらゆる権威が利権だと知られたおかげで説明がしやすくなりましたが、映画も権力です。海外の批評家を抱き込むことによって「世界が驚いた!」みたいな架空の賞賛をでっち上げることも可能──なわけです。でなけりゃ今どき、映画批評家なんて商売がどうやって成り立つと思われますか?
余談はさておき、ザ日本映画のAbused Womanの系譜をたどるとき、あくまで個人的な狭い映画観ですが、篠田正浩のはなれ瞽女おりん(1977)を、まっとうなAbused Woman映画と定義します。はなれ瞽女おりんは系譜ですが、いい映画です。
女性が虐げられる映画だけど、まともなのは、ひとえに瞽女の話だからです。瞽女(ごぜ)や歩き巫女ならば、全国を行脚しながら、春も売っている──たいへんな辛苦があったわけです。
監督が、女性に対して、みずからの加虐趣味をマンゾクさせたいならば、時代や設定を工夫して。──という話です。
現代劇では、粗暴な男から女が搾取される話をむりむりに設定するために、チンピラか変質者が出てきます。すると設定上、石井隆や団鬼六のような世界へ落ちていきます。
わたしが再三、21世紀の女の子のことを言うのは、20代の女性が、それと同じ感性を持っていたからです。むしろどうやって昭和ブルーフィルム的世界観を知ったのか不思議だったからです。にもかかわらず「21世紀」を冠していることに、猛烈に腹が立ったからです。
それはいいとして、日本映画の定番となっているAbused Woman映画に対する韓国からの回答がこの映画です。
ところで「回答」ってコトバ、しばしば使いますよね。たとえば「孤狼の血は白石和彌監督のアウトレイジに対する回答だ!」みたいな。
言うまでもありませんが、これらの「回答」は、発言者が勝手に、そう思っているだけ──です。もちろんわたしのも、そうです。
この映画の圧倒的な楽しさは、因習や封建制に虐められていた女性が、プッツンしてカマを振り回し、血と糞と味噌にまみれるところ。東洋版 I Spit on Your Graveと言ってもいいですが、もっとずっとアドレナリンが出ます。おしんが突然狂乱して殺戮をはじめたら面白くないですか?パワフルなエネルギーに満ちていて、とても感心した映画でした。