「人は「なぜ生きる」か!未来が素晴らしく見えてくる作品。ちょっといたいけれど(^^ゞ」127時間 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
人は「なぜ生きる」か!未来が素晴らしく見えてくる作品。ちょっといたいけれど(^^ゞ
アメリカーユタ州の峡谷で絶望的な事故に遭っだ青年が奇跡の生還を果たすまでの127時間が描かれます。現在は登山家としても活躍するアーロン・ラルストンの実体験に基づいているが、単なる脱出記ではありません。
前作でアカデミー賞8冠に輝いたのダニー・ボイルのスタイリッシュな映像は、本作にも受け継がれています。特筆ものは、岩場に閉じ込められてしまうたった一人の遭難者の映像を、監督ならではの技巧で、94分の映画作品として成立させてしまったこと。そして、単調になりがちな生還劇のなかに、自己のインド人としての東洋的なポリシーにも繋がる人生観を、しっかり描き出したことです。
ラストの腕を切り落とすところは、リアル過ぎて、ちょっと制止に耐えがたかったですが、全体としてはダニー・ボイル監督の才能に脱帽してしまう出来上がりでした。
ワンシチュエーションや際だった演出がお好きな方にお勧めしたい作品です。
冒頭に登場するのは、本編とは関係ない大群衆の映像。雑踏の混沌、競い合うアスリートたち、証券取引所では金融マンがひしめき合います。このシーンの意味するのは、主人公のアーロンが暮らしているだろう都会の日常風景だろうと思います。けれども、そういう雑踏で、多くの人と関わりを持つことを嫌って、アーロンは週末になると誰にも行き先を告げず、勝手知ったる無人のブルージョン・キャニオンの深部ヘとひとり突き進むのでした。誰からも邪魔されることなく自然と向き合うために。そこではアーロンは水を得た魚のように生き生きと立ち振る舞います。飄々と岩場を登っていく様は、『岳』の島崎三歩のようで、いわば山バカに属するタイプでしょう。
ボイル監督は、冒頭に大群衆の映像を示して、アーロンの孤高を求める気持ちと対比させたかったのではないだろうかと思います。けれども事故を経験して、アーロンの人生観は多きく変容を遂げます。その落差を強調するために、冒頭のシーンが必要だったのだと思います。
さらに、大群衆が舞台のアメリカでなくインドの映像を使っているのは、自己のアイディンティの提示と共に、本作のテーマの背景にある思想のルーツがどこにあるのかを暗示したものではないでしょうか。
冒頭からアーロンが登場するまでの映像は、縦に3分割された映像に、ポップでビートの利いた音楽が重なり、「スラムドッグ$ミリオネア」の快活な冒頭シーンを思い起こさせてくれて、作品への期待感を多いに高めてくれました。
渓谷の達人であるアーロンでも猿が木から落ちるようには思いがけない事故に巻き込まれます。
深く狭い谷底で落石に右腕を挟まれ、身動きがとれなくなったのです。携帯もなく、声の届く範囲には誰も人の気配はありません。そんな絶望的な状況下で、なおもアーロンは知識と経験を総動員して、生き抜く手段を考えはじめる脱出をはかりますが、万策尽きてしまいます。最後に残ったのは、死を覚悟するだけという厳しい現実。
ここで映画的な問題は、主人公はクレパスに閉じ込められたきりであること。このままだとまったく動きのない画面に独白が続くことにもなりかねません。
ここからがボイル監督の本領が発揮されていきます。一時も観客を退屈させまいとして、これまで培った映像テクニックを総動員!。
死を覚悟したアーロンは人生を回顧し、自由を夢見ます。見ている方を混乱させかねないカットバックの進行に加えて、時にアーロンや周りのアリなどの超クローズアップから閉じ込められている岩場の俯瞰映像まで、アルグルを激しく入れ替えて飛び交うカメラワーク。そのすべてをめまぐるしい編集でまとめきるのがボイルの監督の熟達の技といっていいでしょう。特に、幻想が曲者で、激しい雷雨による洪水が穴を満たして岩から解放されるリアルな映像も描かれます。それが幻想だったと空かされてしまうと、最後の最後まで。本当に助かったのか、幻想なのか、解釈で頭の中がぐるぐると廻り、退屈など感じる間も感じませんでした。そして気がつけば、たちまちのうちにクライマックスまで連れてしまった次第です。
けれども大半のシーンは、主人公の閉塞状況を共有することになります。その時間帯はつらいし、怖いし、猛烈に痛みを感じることでしょう。しかし、決してうんざりはしませんでした。なぜなら本作は、単に脱出を目的にした作品ではなく、なぜ脱出したのか、どうして想像を絶する苦痛を乗り越えてでも生きようとするのかが、きちんと伝わってきたからです。
そのテーマを語る小道具に用意されたのが、アーロンの持参したビデオカメラ。カメラに向かって語りかけることで去来する記憶や、再生する過去の映像を使って、朦朧とした頭に浮かぶ妄想や後悔の想いが表現されていきます。ボイル監督は、巧みにとらわれの体からあふれ出す様々な想念を巧みに視覚化していったのです。あぶり出されるのは、多くの人の関わり合いで生きてこれたという感謝の気持ち。そして、人はひとりでは生きられないという素朴な真実。
自然を愛する余り、他人との関わり合いを拒絶してきたアーロンの人生観がぐらりとかわり、顧みなかった他者の存在の大きさがアーロンを突き動していきます。人は無意識の世界で多くの人と繋がっているという東洋思想が色濃く繁栄していると思えました。
人は長時間閉じ込められると次第に内省的になり、我欲で独善的なものの見方の色眼鏡を次第に薄くしていきます。すると、自分本位なものの見方から、自分を肉体の外側から観察できるようになれるのです。そこで初めて、孤独だと勝手に思い込んでいた思い込みが崩れて、どれだけ多くの人の親切に頼って生きてきたのか悟れるようになれるのですね。
そして極めつけ。アーロンは誰かと結婚して、幸福な人生を全うしている人生を幻想で見てしまいます。内省状態の究極にあるのは、神通力が一時開眼するのです。アーロンが見た未来は単なる幻有か、予知夢だったのか?ラストシーンをご覧になれば分かります。
それにしても、クライマックスとなる脱出シーンは今思い起こしても戦慄を感じます。さすがのボイル監督でも、ここではどんな流麗な映像テクニックも放棄せざるを得なかったようです。どんな素材もエンターテインメントに仕上げるボイル監督であっても、127時間にわたるアーロンの苦悩までは、エンターテインメントでは消化できず、ストレートに写実するするしかなかったのでしょうね。
本作を見終わって、ああ怖かった!という感想だけでは残念ですぅ。ご覧になった皆さんにも、アーロンと同じような予期せぬ無常に出会ったとき、強く心に本作のことを思い起こしされて、人は「なぜ生きる」か、「何によって生かされている」のか、考えてみて下さい。それが本作を作り上げたボイル監督からのメッセージだと思います。