「ヒロインの感情描写不足の気がしてならないは何故?」アレクサンドリア Ryuu topiann(リュウとぴあん)さんの映画レビュー(感想・評価)
ヒロインの感情描写不足の気がしてならないは何故?
期待し過ぎてしまっていたのだろうか?観終わった後で「観なければよかったのに、残念だった」と正直に言えば、こんな言葉が自然に口をついて出てしまっていた。大袈裟では無く、そんな気持に襲われる自分が嫌になる映画だった。殆んど映画は自分一人で観るので、独り言を本当に呟く事はめったに無いのだが、ついこのセリフが無意識に出てしまう程に期待を裏切られた。観るのを楽しみにしていた作品だけに、残念に思えてならないのだった。
これは、あくまでも私の個人的な感想で有り、この作品の出来が悪いとは、決して言えないのかも知れない。何故なら、この作品の監督は、スペイン出身のアレハンドロ・アメナーバルで、彼の過去の作品には「蝶の舌」や「海を飛ぶ夢」と言う素晴らしい作品が有りついあれらの作品以上の素晴らしい作品を作ってくれているに違い無いと無意識に私の一方的、且つ個人的にこの監督に期待し過ぎていただけなのかも知れない。だから白紙のサラの状態で観る事が出来ないでいるが故の今回の評価になってしまったのかも知れない。
大風呂敷をドカッと広げられて、中はゴロゴロと大きな原石の塊が転がり出して来た感じと表現したら良いのだろうか?・・・
映画のヒロイン、ヒュパティアの心の奥の苦悩がドラマとして描かれていない印象を受けてしまうのだ。
只ひたすらに学問にだけその身を捧げて生きた彼女ではあるのだろうが、その彼女が自分の総てと言っても良い、研究の場である図書館を追われても、研究を続けている姿が、淡々と描かれていくのは、其れほどまでに彼女が学問にその人生の総てを捧げ尽くしていた証なのかも知れないだろうが、映像表現である映画は、観客に対して、ヒュパティアの苦しみの心理状態を映像として伝えなければ映画芸術としての表現を果たしたとは言えないと思うのだが?
それこそ、音を消したサイレントでドキュメンタリーを作り字幕を指し込んでいない作品を見せられているようで、「彼女は、初代鉄の女?」自分の身に降りかかる運命の出来事でも感情が無い人間かの様に描かれている気がしてならないのであった。
しかし、この監督がヒュパティアを意識的に、冷酷な差別主義者で奴隷に対しても何の人間的価値も認めない、哲学だけを論じて生きていれば、それで良い人間で、彼女に人間的な感情は無いと意図的に描いているのであれば話はまた別である。
この時代の奴隷には、仕事さえ立派に果たしていれば、「ヘルプ」や「アメージンググレイス」が描いている様な奴隷階級者に対する差別的な感情を持って生きる人は少なく、奴隷制と言うカースト制度は存在するものの、もっと緩やかで自由が奴隷にも認められている奴隷制度であったと言われているこの時代のカーストだが、ダオスに対する心情も、頑ななまでに無視されている。これ程までに優秀な哲学と天文学を極めていたヒュパティアが学問の研鑽を積む過程には人間愛がなければ、研究は出来なかったと私は推測するのだが、
映画や、文学、音楽、芸術の総ても、科学の世界も極めれば、人間が生きると言う事の意味を考える事にも通じてゆき、宗教と結果的に科学も芸術も、人の営みそれ自体に、宇宙との一致を観ると思うのだが?この映画を観ると、そこには何か一致する様な繋がりが微塵も描かれていない気がして、疑問だけが残るのだった!
宗教は人を救う筈なのだが、宗教によって救われる事など決して有り得ないとこの監督は表現をしようとしているのだろうか?
或いは、戦にだけ明け暮れる人間は罪深い野蛮な輩とでも言いたいのだろうか?
戦闘シーンの残酷なところが延々と続く印象しか残らない作品であった事は、如何にも残念でならない。レイチェル・ワイズを起用しているのに、何とも勿体無い映画だった。