劇場公開日 2011年10月1日

天国からのエール : インタビュー

2011年9月29日更新
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“底なしの器”阿部寛のあきらめない姿勢

役柄の幅の広さは、俳優の器を計るひとつの指針となる。その観点でいえば、阿部寛は常にその容量を増やしている印象だ。ここ数年を見ても、歴史上の人物から厚労省の役人、切れ者の刑事など実にバラエティに富む。そして「天国からのエール」では、さらなる新しい顔を見せた。病と闘いながら、若者たちに夢をあきらめないことの大切さを説いた弁当店主。「実は一番濃い、自分の中でハードルの高かった役」と振り返る、実在した市井の人物とどのように向き合い、いかに表現したのか、聞かずにはいられない。(取材・文/鈴木元、写真/堀弥生)

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「天国からのエール」の主人公・大城陽のモデルとなったのは、沖縄・本部町で弁当店を営みながら、隣接する本部高校の生徒たちのために私財を投げ打って音楽スタジオ「あじさい音楽村」を建てた仲宗根陽さん。若者たちに「ニイニイ」と呼ばれて慕われていたが、2005年8月にじん臓がんと診断され、09年11月に42歳の若さで他界した人物だ。

「最初はまるで夢のような話だと思ったんです。子どもたち一人ひとりに『最後まであきらめず本気でぶつかれば心は通じる』と信じて全力でぶつかり、彼らをサポートした人。そのまっすぐな情熱にすごく感銘を受けました。同世代だけれど、そういう部分が自分の中にあるのかと自問自答しましたが、決してマネはできないと思い、ならばこの人はどういう人なんだろうと興味を持ちました」

だが実在の人物とはいえ、歴史上の偉人などとは勝手が違う。NHKで放送されたドキュメンタリーなど生前の映像も多く残されており、全編ロケを行った本部町には遺族をはじめ友人、知人も多い。撮影中には、美幸夫人(映画での役名は美智子)らに取材をしながらリアリティを追求したという。

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「身近な人が見守る中で彼を演じるわけですから、プレッシャーは大きかったですね。でも毎回、身近な人に取材ができたことはすごく参考になった。最初は、この人はどういう利点でそういうことをやっているのか、自分の中に受け入れられない部分もあったんです。けれど話を聞いていくうちに、何の見返りも求めず若者を応援したいという思いだけで動いていたと知り共感できた。美幸さんやお母さんもずっと見守ってくれて、『何でも包み隠さずお教えします』と。それで肉付けしていった部分もある。表情やしゃべり方は映像を何回も見て、特徴を似させていって、なるべく近づけようと思ってやっていました」

あるスタッフによれば、仲宗根さんが生前に利用していた理髪店でパーマをかけたりしたそうだが、決して見た目だけをマネしようとしたわけではない。彼が若者たちに託した思いを体内に取り込み、そしゃくした上で役として表現しようというこだわりの一環だ。それは方言にも表れており、沖縄出身の友人が「全く違和感がなかった」と太鼓判を押したほどだ。

「方言は苦労はしなかったですね。陽さんの映像を見て体得しようとしているうちに、いつの間にか入ってきた。撮影現場も沖縄の人が多かったので、なじんでいなくても間違っていてもいいから普段から使うようにしていたし、意外に大丈夫でした。逆に(撮影が)終わってからの仕事に影響したというのはあるけれど(笑)。抜けなかったので、相当つらかったです」

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クランクイン前には、仲宗根さんを墓参。撮影中も合間を縫ってのジョギング中に現場近くにあるお墓の前を通ることが何度かあった。それも含め仲宗根さんの息吹が残る本部町でのロケは作品づくりにプラスに作用したようだ。

「『何か間違っていることはないですか』といった、質問をさせてもらうようなお墓参りの仕方でしたね。実際に彼が動き回っていた場所でやれたことはすごく良かった。陽さんが住んでいた場所のすぐ近くに本部高校があって、目の前の急坂を高校生たちがダッシュしていく姿を見ていると、(仲宗根さんが)この子たちを応援したいという気持ちがわいていったんだろうなということが想像できる。(弁当店の調理場で)料理をするときも、使い勝手がいい。そういう部分で助けられたところは、たくさんあります」

陽は全身全霊を込めて子どもたちに接するが、病魔は確実に体をむしばんでいく。特に余命宣告を受けてから亡くなるまでの描写は、ほおのこけ方、痛さに顔をゆがめる苦もんの表情など病人にしか見えない。スケジュールの都合上、健康な状態から順に撮影というわけにはいかなかった中での壮絶な役づくりには恐れ入る。

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インタビュー2 ~“底なしの器”阿部寛のあきらめない姿勢(2/2)
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