「ポートマンの白から黒への変容ぶりに、鳥肌が立ちました。」ブラック・スワン 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
ポートマンの白から黒への変容ぶりに、鳥肌が立ちました。
とにかくポートマンの白から黒へいきなり変容する演技が凄すぎて、息をのみました。アカデミー賞を取ったのも当然の作品でしょう。
ただポートマンだけが評価されるのは、異議ありです。本作のダーレン・アロノフスキー監督の観客を突き放しつつも、巧みに背景を推測させていく、演出の巧みさにももっと評価されるべきでしょう。そして、小地蔵がマイベストとしてリスペクトしている監督の前作『レスラー』と同様に、主人公が追い込こまれて、崩れていく描写のうまさも特筆ものであると感じました。
ちなみに本作は、元々「レスラー」の伏線としてストーリーが考えていたそうです。しかし、とても描ききれないと判断して、スピンアウトして誕生したのが本作です。どことなく二つの作品には、共通した哀しみが漂うのも、「一卵性双生児」だからでしょう。そして、二つの作品に共通するもう一つの点として、「何かに取り憑かれる人々」の物語であるということができます。
主人公のニナは、ニューヨークのある一流バレエ団に所属し、バレリーナとして人生の全てをバレエに捧げる日々を送っていました。母は元ダンサーで、今では絵画を描く日々を送っている。母は自分が果たせなかったバレリーナとしての夢をニナに託し、ニナに対して過剰なほどの愛情を注いでいたのです。そんな母の願いを受けて、ニナはプリマ(主役)を目指して努力する生真面目な女性でした。
そんなニナにチャンスがやってきます。興行動員が落ち込んでいたバレエ団は次の公演で新演出による『白鳥の湖』の上演を目指すことになったのです。しかも、芸術監督ルロイは、これまでのプリマだったベスを引退させて、新たなプリマを抜擢すると発表しました。
ニナも候補に入り、果然ルロイにアピールします。しかしニナには根本的な欠陥がありました。『白鳥の湖』の主役は、純真で無垢な「ホワイト・スワン」と官能的で邪悪な「ブラック・スワン」の二役を一人で踊らなければならない役どころ。相反することがらをひとりで表現できなければならないのに、ニナは箱入り娘で育ったせいか、潔癖症なため、全く官能的な表現ができなかったのです。
それに対しライバルのリリーは、自由奔放で男を誘惑することに長けていて、ブラック・スワンをその身で体現しているような踊りをニナに見せつけます。ニナは焦って、「ブラック・スワン」に成りきろうとすれば、自分のなかに宿るダークサイドな一面を見つめざるを得なくなります。それがラストにとても危険なことにつながっていくことを、本人も気がついていませんでした。
ニナのダークサイドな一面の端緒は、オーディションのとき、いきなりキスをしてきたルロイの唇を噛んでしまうようなところに。ニナに意外な面があることに気付ついたルロイは、自分の考えを翻し、ニナを主役に抜擢したのてす。
しかしプリマの重圧から、ニナは精神的に疲れ、幻覚や妄想といった精神病的な症状に悩まされるようになっていきました。もしもの時の代役として控えているリリーが、自分がせっかく射止めた主役の座を奪おうとしているようにも思えてならなくなっていたのです。ルロイは、ニナのブラック・スワンを演ずる時の寒々とした完璧主義的な踊りを厳しくダメだしします。相手役の王子を性的に魅了するような情熱に欠けていたのでした。
トマスのアパートに立ち寄ったニナに、ルロイは自身で性的な喜びを追求することが必要だと言って、ニナを帰してしまいます。女としても、見てくれないことにショックを抱くニナでした。
帰宅したあとのオナニーシーンが色っぽかったです。またリリーとレズビアン的なセックスもあり、まさにポートマンは役に体当たりしています。
「レスラー」同様、舞台裏の楽屋や狭い廊下で主人公を追うのは、主に手持ちカメラです。しかし「レスラー」のドキュメンタリー・タッチに対し、こちらはまるでホラー映画のようです。ニナの狂気は具現化され、「エクソシスト」で悪魔に取り憑かれた少女のように、邪悪な黒鳥に変わっていくのです。その映像は圧倒的。
バレエのスタジオや楽屋に無数にある鏡が、ニナの姿を様々に映し、やがて合わせ鏡の中の像が無限に分裂していきます。同時にニナの中の白鳥と黒鳥も分裂し続け、決して止揚されません。ついには黒鳥がドッペルゲンガー(もう一人の自分)となって暴走しだします。不安定な手持ちカメラの生々しさ。鏡の中の顔が悪魔の形相に変わるショック。ホラー映画のテクニックを駆使し、ニナの見る幻想が異様な緊張感と官能で描かれます。
本作で、鏡は重要なシンボルです。ニナはいつも鏡を通じて自分を見ていました。鏡は、時としてニナとは違った行動をとったり、そこに写るべきものが写さなかったり、不思議な描写をします。それが意味するのは、「鏡を通じて作られた自分」であり、鏡とは自分をコピーのように育て上げようとした母親を意味するのではないでしょうか。「鏡」の一部で行うラストの衝撃的な行動は、母親からの自立を目指したかったからではないだろうかと思えました。それをふりきるためには、数多くの苦悩とこれほどまでの犠牲が必要だったのです。「私、感じてたわ。完璧よ。私、完璧だったわ」という最後の言葉は、やっと母親に認められて、母親から卒業できた安堵の言葉だったのかも知れません。
圧巻は公演シーン。ほぼ完璧にバレリーナになり切ったポートマンの演技が本作に命を吹き込んでいました。撮影前の10か月間、毎日5時間に及ぶトレーニングを積み、9キロの減量をして、たっぷりとある踊りの場面のほとんどすべてをこなしたそうです。
少女時代にバレエの経験があるとはいえ、本物に見せるには超人的な努力が必要だったでしょう。演技というレベルを超えた、狂気すら感じさせます。ポートマンもまた、ニナという役に取り憑かれたのではないでしょうか。
観客もまた、主人公と共に取り憑かれて、迷宮をさまようことになった2時間でした。
追伸
但し、引きのショットは極力回避されているものの、群舞などの引きのシーンでは、ナタリー・ポートマンの顔面をCG合成しているようです。バレエでは、全般的にバストアップの構図を多用することで、表情などの演技に観客の視線を集中させ、彼女の踊りの未熟さを上手くカバーしてしまっているところが、上手い撮り方だなと思えました。
ポートマンに埋もれてしまった格好ですが、ヴァンサン・カッセルもなかなかプレイボーイぽい舞台監督を好演していたと思います。