SOMEWHERE : 映画評論・批評
2011年3月24日更新
2011年4月2日より新宿ピカデリーほかにてロードショー
酸のきれいなブルゴーニュのように。監督とホテルがメランコリーを分かち合う
「ロスト・イン・トランスレーション」は退屈だったが、「SOMEWHERE」は面白かった。
前者に出てくる新宿の高層ホテルは無味乾燥だったが、後者に出てくるシャトー・マーモントには陰翳があった。
私のえこひいきだろうか。ホテルの雰囲気で映画の価値を決めるのは乱暴だろうか。
いや、シャトー・マーモントはたんなる雰囲気ではない。少なくとも、このホテルは映画の主人公ジョニー・マルコ(スティーブン・ドーフ)を守っている。迎合せず、甘やかさず、それでもなぜか守っているのだ。
ジョニーはハリウッドのスターだ。彼はうつろだ。空っぽだ。映画出演の合間に、パブリシティをこなしたり、いいかげんなセックスをしたりして時間をうっちゃっている。
そこへ前妻の娘クレオ(エル・ファニング)がやってくる。娘は11歳だ。わけあって、ふたりはしばらく一緒に過ごすことになる。
映画はそれだけの話だ。筋立てはないし、大きな事件は起こらないし、決め台詞もない。
それでも、「SOMEWHERE」はすばらしく優美だ。靄のかかった南カリフォルニアの光と、父娘の醸し出す「無為の空気」がことのほか美味に感じられる。それも、ビーフやチーズやマッチョなワインではない。あえていうなら、酸のきれいなブルゴーニュだ。色は淡く、果実味も抑え目だが、香りが高い。
では、この映画は監督ソフィア・コッポラの回顧談に近いのか。そんな思いも一瞬よぎるが、むしろ私は彼女の透徹した視線に惹かれる。コッポラはジョニーをじっと見つめる。その視線は、ときおりクレオの観察とも相互乗り入れをする。ただし、彼女は診断を下したり、処方箋を書いたりはしない。そうか、シャトー・マーモントも、そんな風にジョニーに接していたのか。監督とホテルが、メランコリーを静かに分かち合っている。
(芝山幹郎)