「映画を好きでいるという孤独な営み」CUT cmaさんの映画レビュー(感想・評価)
映画を好きでいるという孤独な営み
すべてを包み込むような静謐さと、ひりひりと焼けるような痛みと、熱にうかされるような高揚と。観る者のエネルギーの一切を搾り取り、同時に底知れぬ新たなエネルギーを一気に吹き込む(まるで、シュウジが抱えた借金のようだ)。そんな至極の映画体験を、一瞬も絶えることなく存分に味わった。
連呼される「映画」という言葉。初めこそ気恥ずかしさを感じたが、シュウジが地を踏み鳴らす足音と相まって、次第に胸躍るリズムとなっていく。何より驚かされたのは、どす黒い血と汗にまみれた映像に覆い被さる、映画100本のクレジット。文字という単なる記号が、暴力に相対する説得力を発揮する。そして、ビルがそびえる都会の中で明かりを灯す、屋外映画館の幻想的な美しさ…。様々な音が、光景が、今も鮮烈によみがえる。
バーに集う人物たちは、殴られ屋となるシュウジを軸に揺れ動くが、シュウジは最後まで彼らと交わらない。映画という共通項を持つ友人や、上映会に集う人々とさえも。映画を伝えたい、映画について語り合おう、とシュウジは高らかに呼び掛けるが、実際は多くを語らず、沈黙を保つ。
映画を好きでいるのは孤独なことだ、と改めて感じた。日常会話の中で、「映画が好きです」と言うのは、勇気がいる。相手に「私も」と返されると、むしろどきどきする。「映画」は余りにも幅があり、それでいて「読書」のような普遍さがない。どこか特別。映画好き、という共通項を喜びつつも、語り合えば差異があらわになり、逆に溝が生まれるかもしれない、と不安になる。好きなジャンル、俳優、監督、映画を観る場所やツール、…好きのありよう。そんなことまで気になってしまう。
そもそも、映画館の暗闇に身を置くこと自体、心地よく孤独を感じる行為だ。向き合うのは、他者ではなくスクリーン。笑ったり泣いたりする箇所や、笑い方・泣き方にはズレがある。たとえ同じシーンであったとしても、泣く・笑うといった目に見える行動の背景にある思いは計り知れない。映画を好きでいるということは、誰かとの共通項探しや共感以上に、他との違いやずれを感じることで、もやもやとした自分というものを、手探りしつつ確認したいのかもしれない。
だからこそ、映画への愛を秘めながら沈黙を守り、傷だらけになるシュウジから、映画の中の彼らも、映画を見つめる私たちも、目をそむけられない。彼らは映画を救うためではなく、挑戦を貫くシュウジに惹かれて行動を起こす。それでも、シュウジの映画への想いは守られ、鼓舞される。…映画にとっても、シュウジや彼らにとっても、幸せなことに。
映画によって、細々と、そして確実に、私たちは孤独を保ちつつ繋がっている。