「『4匹の蝿』が観たくて観たくて仕方がなかった青春時代。ホントいい時代になりました(笑)」4匹の蝿 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
『4匹の蝿』が観たくて観たくて仕方がなかった青春時代。ホントいい時代になりました(笑)
『4匹の蝿』は、僕たちにとって特別な映画である。
とある世代のアルジェント・ファンにとって、
『4匹の蝿』は、長らく「幻の映画」だったからだ。
封切られた70年代はまだ幼児で、映画館でリアルに初期作を観るのには、到底間に合わなかった。
80年代にテレビで『サスペリア』『サスペリアPART2』を観て、強烈なトラウマを植えつけられた。
夕刊のラテ欄下で大々的に展開される『フェノミナ』や『デモンズ』の広告にビビりまくった。
大学生になって、VHSでアルジェントの旧作を見まくり、パッケージを手あたり次第そろえた。
自分で映画館に足を運ぶようになって、初めて劇場で観たアルジェント作品は『トラウマ』だった。
でも、『4匹の蝿』だけは、観ることができなかった。
日本語版のヴィデオ・パッケージが存在しなかったからだ。
それどころか、洋盤のVHSすら中古屋で探しても見つからなかった。
風の便りで、権利関係に問題があって商品化できないのだときいた。
僕らにとっては、弟子のミケーレ・ソアビが撮ったドキュメンタリー『鮮血のイリュージョン』(86)に引用された断片的なシーン(出だしの劇場シーンとラストシーン)だけが『4匹の蝿』を観られる唯一の素材であって、特に後者のスローモーションとモリコーネ節は、いたくこちらの想像力を刺激した。
いったいこれはどんな映画で、なにがどうなってこんなエンディングになるんだろう???
最初に『4匹の蝿』の全編をまがりなりにも見られたのは、知人からダヴィングしてもらったヴィデオテープによってだった。ただし、それはなぜかフランス語版で、話の細部は今一つわからなかった。それでも、幻のアルジェント作品を実見できたというだけで、僕はもう大満足だった。
その後、権利関係がクリアになったらしく(詳しくはWiki参照)、2009年になって英語版が輸入盤DVDで登場。さらに2010年になって、ついに待望の国内版DVDが登場。劇場リヴァイヴァル上映もおこなわれた。
長年の夢――日本語字幕で『4匹の蝿』を観るという夢が、とうとう叶ったのだった。
2016年には廉価版のDVD&BDも発売され、今では誰でも、いつでも、『4匹の蝿』を安価で観ることができるようになった。
それでも、僕たち一部のファンにとって、『4匹の蝿』は今も特別な映画だ。
なんといっても、僕らは20年以上にわたって、『4匹の蝿』を観たくて、観たくてたまらなかったのだ。今のようにネットもなければ、YouTubeもない時代。ひょいとどこかで「拾ってきて」観られる時代ではなかった。観られないとなったら、それはもう絶対に観られない時代だった。
そのときの焦がれるような思いは、今も胸の奥で熾火のようにくすぶっている。
『4匹の蝿』は必ずしも出来の良いジャッロではないかもしれない。
『歓びの毒牙』や『サスペリアPART2』と比べると、いろいろと粗も多いかもしれない。
でもこれは、もはや出来とか、面白さとか、そういうのとは別次元の話なのだ。
一般の価値基準でこの映画は、はかれない。別種の幻想でくるまれている。
あの「渇き」。あの「飢餓感」。
あの「憧れ」。その「残滓」。
長年希求し続けてきた幻の映画が観られる。
それだけで、僕たちの胸はもういっぱいなのだ。
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『4匹の蝿』はいろいろと作品として不格好なところはあるにせよ、比較的アルジェントの趣味性や性癖のよく出た、個性と体臭の強い映画であり、そのへんがファンにとってはこたえられないのではないかと思う。
振り返ると常にたたずむ追跡者。
薄笑みの仮面を装着した窃視者。
突然無人と化す公園(都会の孤独)。
壁の隙間でもだえ苦しむ家政婦。
重大な役割を果たすネックレス。
斬首シーンの幻影と吹っ飛ぶ首。
さまざまな要素が、このあとの『サスペリアPART2』と『サスペリア』のなかで、完成形となって提示される。いわば『4匹の蝿』のなかで登場するさまざまなネタは、成熟して実りを示す直前の青い果実のようなものだ。
とくに、人影のない廃劇場のような建築空間で、あたかも人の顔のように二つのライトが光るバルコニーから、お面の怪人物(『サスペリアPART2』の殺人人形を想起させる)がシャッターを切りまくるシーンは、まさに「僕が観たかったアルジェント」そのものだ。
こういう非現実的で幻想的な「作りこみ」と、得体のしれない「稚気」と、本格ミステリ的な「わくわく感」を撮らせてアルジェントの右に出る監督はいない。
その他、本作には印象的な「仕掛け」に満ちた撮影が数多く観られる。
●真上からの鳥瞰カメラ、スロー、ギターの内側のカメラ、時折はさまる無音と心臓の鼓動と、きわめてマニエリスティックなカメラワークを駆使する冒頭の演奏シーン(蝿がドラムとシンバルにとまっているシーンは、レイモンド・チャンドラーの『かわいい女』からの引用らしい)。
●電話ボックスから延びる電話線をずっとたどっていくと電話会社の機械を経て、犯人の部屋にまでたどり着くシーン(パンフによれば、トリュフォーの『夜霧の恋人たち』に出てくる、郵便局の空気チューブの中を手紙が移動して相手まで配達される過程を表現したシーンを引用しているらしい)。
●その部屋で犯人が触っている写真のなかに、犯人の幼少時の写真が紛れ込んでいて、実はそこに「性別」にかかわる重大な錯誤(視覚的トリック)が仕込まれている点に注目。
●その直後に挿入される過去の精神病院収容シーンで、自傷させないためのふわふわの壁とか、武器にさせないために調度がなにもないとか、ベッドにとりつけられている拘束具とか、「視覚的要素」だけで状況を表しているのが憎い。部屋のなかをぐるぐるまわるカメラは、収容された犯人のあせりと狂気をうまく表出している(ちょっとゴダールっぽい)。
●望遠カメラから入る、公園での待ち合わせシーン。巨大な木との対比や、遊具で遊ぶ子供たちとの対比など、あらゆるショットでメイドの「ぼっち感」が強調され、やがて夕暮れを経て、彼女は世界のすべてから切り離され、殺人鬼の獲物として孤立無援の猫と鼠のゲームを強いられることになる。唐突に人が消えるモンタージュなどには、ゴダールっぽい茶目っ気が感じられる。公園の植え込みの前に座るシーンには、少しピエール・エテックスの『大恋愛』(69)を思わせるところがある。
●迷路庭園のような通路でメイドが追い詰められていくシーンは、『サスペリア』のサラ殺害シーンなどにも通じるアルジェントらしい粘着質なやり口。のちの『シャイニング』(80)につながっていくネタでもある。このシーンでは、パンフによればコーネル・ウールリッチの『黒いアリバイ』が参考にされているらしい(読んだけど覚えていないw)。
●メイドの「最期」をあえて描かないのは、若干その後のアルジェントから考えると「奥ゆかしい」ギミックだが、『歓びの毒牙』での「ガラス張りで襲撃シーンが筒抜けで見えているのに、閉じ込められていて音だけが通らない」冒頭の目撃シーンと、「壁で何が起きているかは見えないが、惨劇の音だけが聞こえてくる」様子が「対」になっている点に注目したい。
●共犯者を襲う一人称カメラとボトルのセット、直後に被害者目線に切り替わるカメラ、今度は犯人視点のカメラのレンズに吐きかけられる血反吐、ねじねじと首に食い込んでいく針金。インパクトはまだ弱いが、いかにもアルジェントらしい手の込んだ殺害シーンだ。
●風呂場での浮気シーンはアルジェントにしては珍しいくらい尺の長いエロティックなシーンだが、昔観た英語ヴァージョンではまるまるカットされてた記憶がある。ちなみに英語版では口が英語で、イタリア語版ではイタリア語で動いているようにしか見えないのだが、気のせい?
●探偵が地下鉄で犯人を見つけて尾行するシーンの、いかにも思わせぶりなモンタージュもアルジェントらしくて素晴らしい。地下鉄構内ですぅっと群集が引けていって、気づくと「都会の孤独」のトワイライトゾーンに落ち込んでいるあたり、最高。
ちなみに動物三部作恒例の「ゲイの面白キャラ」の大トリとして、この探偵の愛すべきキャラクターは忘れがたい。監督いわく「チャンドラー的な男性的探偵像の逆」をいきたかったとのこと。
●クローゼットに追いつめられて、息を詰めて隠れる被害者の様子と、襲撃後の階段落ち、ナイフに映り込む光景などからも、まだ未完成ながら「アルジェントの殺人美学」が確立へと近づいている様子がわかる。
●眼球の網膜に最後に映った残影から犯人を追及するというネタは、小酒井不木の医療ミステリ短編とネタがかぶるが、同じネタ元なのだろうか? パンフによれば、共同脚本のルイジ・コッツィがドイツの新聞で見つけてきた科学捜査ネタらしい(ちなみに僕は20年以上前にイタリアでアルジェントのグッズショップに足を運んで、ちょうど店番をしていたルイジ・コッツィと、ひとしきり談笑したことがある。うらやましいでしょ)。
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(ここから、真犯人に対する言及があります。未見の方はご注意ください)
パンフによれば、この映画はアルジェントが当時の妻だったマリーザと離婚した時期に撮られていて、お互いのことをまったく理解していない夫婦が憎しみ合う姿には、監督の私生活が色濃く反映しているという。だからこそ、彼は自分によく似たマイケル・ブランドンと、妻にそっくりの風貌だったミムジー・ファーマーを配役したとのこと。
要するに、当時の妻に対する当惑と怒り、悲しみ、憎悪が、本作の犯人像に投影されているということだ。
このエピソードを聞いて、想起せざるを得ないのは、ゴダールがアンナ・カリーナとの軋轢を投影させたとされる愛の不条理劇『軽蔑』(63)だ。
あれも、「妻の心わからず」というテーマを延々と追求する映画で、男女の心がすれ違っていく様がミシェル・ピコリとブリジット・バルドーの好演によってスリリングに描かれていた。
とくに強調したいのは、ふたつの映画において「出奔した妻の交通事故死」という刹那的ラストがまる被りしている点だ。アルジェントがみずからの愛の不毛をジャッロに落とし込もうとするなかで、『軽蔑』を参照した蓋然性はかなり高い気がする。
交通事故のシーン自体も、かなりゴダールの『ウィークエンド』(67)を彷彿させるところがあるし。
しかもパンフを見ると(自分では気づけなかった)、主人公に送られてきた脅迫状の封筒には住所が「Fラング通り」と記されているらしい。「フリッツ・ラング監督を敬愛するダリオ・アルジェントによる一種の遊び」とのことだが、ちょっと待ってほしい。フリッツ・ラングはまさに、ゴダールの『軽蔑』に監督役でがっつり出演しているのだ。ね? かなり「わざと」やっている可能性は高いんじゃないの?
あと、本作を改めて通しで観て、いかにアルジェントが犯人の隠匿に気を使って撮っているかが伝わってきて感心した。殺害シーンの直後に、家庭で客人を歓待する妻としてのミムジーを何度も映すのは、いかにも「両者が関係ないところにいた」かのように見せかけるためだし、前半で共犯者が出てくるのも、後半で妻がいきなり家を出てしまうのも、真犯人隠匿のための深謀遠慮である(お面の付け替えで、妻とお面の共犯者が同時に場面に映ることで、妻の嫌疑を晴らす目的がある)。
ミムジー・ファーマーがいかに魅力的な女優かというのは、数年前にKシネマでもリヴァイヴァル上映された『モア/MORE』(69)と『渚の果てにこの愛を』(70)を観れば一目瞭然だ(ここの感想欄でもみっちり書いたので繰り返さない)。本作の場合、どうしてもミステリとしてのギミックが優先されることもあって、その2作と比べると彼女のコケティッシュで薄幸そうで危うげな魅力が十全に発揮されているとはいいがたい。
とはいえ、あの美麗で凶悪で幻想的なラストシーンは、まさにミムジー抜きでは成立し得ないし、彼女にとっても、あのワンショットで映画史に爪痕を遺せた部分はあったはずだ。