クレイジーズ : 映画評論・批評
2010年11月9日更新
2010年11月13日よりシネマサンシャイン池袋、TOHOシネマズ六本木ヒルズほかにてロードショー
スリルと詩情で新たな魅力を打ち出したスモールタウンからの脱出劇
リメイク映画を観る場合、その元ネタと比べてみるのはひとつの楽しみ方だ。しかしジョージ・A・ロメロ監督の「ザ・クレイジーズ」との比較はいかにも分が悪い。ベトナム戦争末期の1973年に製作されたこのパニック・ホラーは、細菌兵器の恐怖をいち早く扱い、しかもロメロ特有の文明&人間批評もばっちり盛り込まれている。何せ当初は“SF”と紹介されていた作品なのだ。ロメロの先見の明、恐るべしである。
しかしブレック・アイズナー監督のリメイク版の賢いところは、軍事衛星からの俯瞰ショットを取り入れるなど現代化を図りつつも、ことさら社会派的視点でロメロに対抗しようとせず、別の魅力を打ち出していることだ。それはずばりアイオワの田舎町が生物兵器ウイルスに汚染されていく2日間の過程を描き、そこはかとなく黄昏れた詩情の漂う“スモールタウン・ホラー”としての恐怖感を醸造すること。そして残りわずかな非感染者たちの逃避行をスリリングに見せることに徹し、“サバイバル・ホラー”としての強度を高めているのだ。凶暴化ウイルスに感染しているのかどうか判然としない保安官助手のキャラクターを登場させ、「正常と狂気の境目はどこにあるのか?」というロメロ版に通じる問いを発している点も抜かりない。
そもそも最近は、甦った死者もウイルス感染者も“ゾンビ”として一緒くたにされることが多い。37年も前に「ザ・クレイジーズ」という“非ゾンビ映画”をあえて発表していたロメロの先見の明、やはり恐るべしである。
(高橋諭治)