「陰湿になっていくハリポタシリーズの魔法決戦と比べて、どろどろしたところがなく、スカッとした活劇に仕上がっているのが特徴。笑いもあり。」魔法使いの弟子 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
陰湿になっていくハリポタシリーズの魔法決戦と比べて、どろどろしたところがなく、スカッとした活劇に仕上がっているのが特徴。笑いもあり。
★★★★☆
さすがにジェリー・ブラッカイマーのプロデュースだけに、全編がアクションにつぐアクションで、CGシーンのオンパレード。最近オカルト映画のように陰湿になっていくハリポタシリーズの魔法決戦と比べて、どろどろしたところがなく、スカッとした活劇に仕上がっているのが特徴です。
ストーリーも単純明快で、悪玉モルガニアンと善玉マーリニアンの魔法使い同志がぶつかり合うというもの。但し、ひねりとしては悪玉最凶の魔法使いの魔女モルガナが復活するとき、それに対抗しえる高指導者マーリンの後継者は、魔法使いの存在すら信じられない、気弱な物理オタクの青年デイヴだったということ。
しかも魔法の習得には、集中力が必要なのに、デイヴはすぐにすっぽかして恋しい人の尻を追っかける始末です。そんな等身大の軟弱な主人公と、あの手この手で仕込んでいく魔法使い・バルサザールの押しの強いキャラのでこぼこコンビぶりが、なかなかユーモラスで、楽しませてくれました。
ただしストーリーは、少々荒っぽく、都合よすぎるところも目立ちます。なんといっても、バルサザールに敵対するホルヴァートは、いつもタイムリーにデイヴの居所を見つけてしまうのは、いくら魔法使いでも出来すぎだと思いました。
ところで、エンディング後にも、そのホルヴァートらしき人物が、トレードマークの山高帽を手にするという謎のシーンが数秒ありました。あれは続編もあるぞ、俺はバルサザールなんかに負けていないのだという暗示ではないでしょうか。
さて、モルガナによる全人類抹殺を何とか防ごうとするバルサザールの唯一の希望は、デイヴを弟子にして、一人前の魔法使いに仕立て上げることでした。
けれどもデイヴは魔法使いになることに凄い抵抗感があったのです。10年前にバルサザールとホルヴァートとの魔法決戦に巻き込まれたデイヴは、その恐怖から失禁したものの、その恐怖体験を誰も信じてもらえませんでした。哀れ白昼に失禁した事実だけがクラスメートの語りぐさになるという失意の日々を過ごしてきたのでした。
だから興味の対象は、自ずと人よりも物理現象に向いていき、テスラコイルによるプラズマ研究に没頭。二度と魔法使いに関わりたくないと過ごしてきたのでした。
そんなデイヴも魔法が生み出すプラズマのパワーには魅了されていきます。また子供のころから思いを寄せていたベッキーが強盗に襲われたとき、自らのわずかな魔法の力で撃退。彼女との距離を縮めることができたことから、急に魔法習得のやる気が出てきたのです。女の子のためなら、何でもやるという現金な奴だったのですね。
そんなデイヴに、ベッキーとの関係には魔法習得の邪魔になると言い続けたバルサザールには、実は大昔に恋をしたばかりに、心の隙を狙われて愛しい人を人形の中に封印されてしまったという苦い思い出があったのです。
本作は、魔法決戦を軸にしつつも、デイヴとバルサザールのそれぞれの恋の行方も描いた、ラブストーリーが伏線で綴られていきます。
ホルヴァートの魔の手がベッキーに及び、魔法使いの能力が彼女にバレそうになっても、デイヴはベッキーのハートを射止めることができるのでしょうかということもお楽しみに。
見所としては、いろいろなものが魔法で化けるシーンです。魔法の力によって、絵とか写真とか、ぬいぐるみとか形があるものから自在に、龍やライオンなど化けて出て、デイヴたちを襲いかかるのです。変化の仕方はとてもよく似ているのですが、なんでも化けるという点では、『トランスフォーフォーマー』以上でしょう。スピーディーな変身ぶりは迫力満点でした。
ラストで見せるカーチェイスシーンなんかも、魔法の力で自在に車種が変わっていくのです。魔法の力も加わった今までにないスリリングなカーチェイスを見せてくれました。
可笑しいのは、デイヴの失敗シーン。これは『ファンタジア』が元になっているらしいのです。ベッキーがデイヴの研究所に訪ねてくるというのに、研究所は汚れたまま。時間がないとあせったデイヴは、魔法で箒たちを操って掃除しようとします。その横着さが、トンデモない事態に。魔法は正しく使わないと、ダメですね。ベッキーの訪問に暴走する箒たちを必死に隠そうとするデイヴの困った姿が笑えました。
さて、本作でディズニーらしいところは、魔法および心の力と量子物理学との融合を目指しているのです。デイヴがプラズマの研究者であることを利用して、魔法のメカニズムを摩訶不思議なむ力とせず、物理学的に説明しようとしているところがディズニーらしいと思います。
そのディズニーらしさは、やはり古来からのヘルメス思想に基づくフリーメーソンの神秘思想にあります。フリーメーソンといっても、源流はギリシャ・エジプト文明の継承者としての意味です。ハリーポッターのような土着の魔術とは、次元が違います。
ディズニーは一貫して、フリーメーソンの神秘思想をわかりやすくエンターティメンとて描き続けてきました。それは永遠の生命を信じず、奇跡を頑なに否定し続けてきたキリスト教会の面々や、現代の頑迷な唯物論者たちに、この世の常識を越えた世界と奇跡を呼び起こす人間の潜在能力があることを、手を変え品を変えて、描きつづけてきたのです。
魔女狩りまで行ったキリスト教国では、現代でもタン・ブラウン原作のシリーズなど上映禁止運動が起こったりします。そんなことに一向に気にせず、ディズニーは神秘的でファンタジックな作品を送り続けています。それは単に興行という利害を超えた価値観、使命感を持っているからだと思います。