「希望を自分で作ったり積極的に探すことの素晴らしさを説く作品。」涼宮ハルヒの消失 eigazukiさんの映画レビュー(感想・評価)
希望を自分で作ったり積極的に探すことの素晴らしさを説く作品。
ある男子高校生の妄想的な学園生活を描く。SF要素のある青春学園ラブコメディ。この映画はテレビアニメ版「涼宮ハルヒの憂鬱(2006年版 全14話、2009年版 全28話)」の物語の追加的な話である。
男子高校生の主人公「キョン」は毎日毎日、家・登校・授業・下校・家という生活を繰り返すだけの無為な学校生活に退屈し世界に対して冷めた見方をする若者であった。しかしある日、「涼宮ハルヒ」という女子学生と会話したことによって彼の世界に対する見方は変わる。キョンは涼宮ハルヒとともに新しい部活動の部を作り部員を募集し今までとは違う学生生活を始めた。涼宮ハルヒとともに新しい部活動「SOS団」を始めた主人公キョンであったがある日突如として涼宮ハルヒと最初から出会っていなかった世界線のパラレルワールドに飛ばされる。主人公キョンは冷めた性格の男子高校生ではあったが、彼は飛ばされた世界でも自分のことを知ってほしいと思い情熱的な感情が自分の心の中に発生してくるのを感じつつ涼宮ハルヒを探すのであった。
点数4.0。お勧めします。この作品の魅力は思春期の男女の交流の雰囲気を妄想的かつリアルに再現して描いていること。普通の男子なら一度ははまると思うオカルトや超常現象などの不思議SF要素もあって楽しい。男子高校生にとって女子生徒との理想的な交流が妄想的かつリアルに描かれている。
私がハルヒ作品で好きな点は主人公キョンが人生の希望を自分で積極的に作る事だ。凡庸な人生に絶望していたキョンはSOS団という部をハルヒと作る。ハルヒとSOS団はキョンの人生の希望の象徴として描かれている。希望は待っていても来ないので自ら作るべきだという事がわかる。そして映画では消失した涼宮ハルヒとSOS部をキョンが必死に探す。希望を失っても積極的に探すべきだ。と映画は言っていると思った。
視聴:液晶テレビ(有料配信アニメタイムズ) 初視聴日:2025年7月18日 視聴回数:1(早送りあり) 視聴人員:1(一人で見た)
追記1:
学生時代の文化祭または体育祭のような自由な男女の交流の雰囲気を感じ楽しい気持ちになれる作品。一度きりの思春期での学生生活での理想と現実のギャップに悩んだり、後悔している人にお勧め。学生時代のクラブ活動に対して新しい視点で見ることができるようになる。主人公キョンの性格が高校生にしては冷静すぎると思ったがこれはこの作品が学生ではない大人をターゲットにしているからであろう。高校生活をスタートした主人公キョンはのちに文科系活動の部に入った。部員は女子3名、男子2名の全員で5人の小さな部であった。部活動の内容は部長である涼宮ハルヒがその日の思いつきで勝手に決めていた。物語の途中でキョンはパラレルワールドへ飛ばされて涼宮ハルヒと部活動のない日常生活になった。キョンは涼宮ハルヒと部活動が忘れられないので積極的に彼女を探し回る。楽しい学生生活というものには二度と戻れないのであるがそれは人の人生とて同じことである。しかしながら、この先にはもっと楽しいことが待っているかもしれない、あの人たちにまた会えるかもしれない、と希望を抱きつつ人は人生をしっかり前を見て生きていくのである。そうしないと人は絶望して前に進めなくなるのである。
追記2:
人は無我夢中で人生を生きているうちはいいが、ふと立ち止まって人生の意義を考える瞬間がある。そして、自分の人生は一度きりで二度と戻れないということがわかってしまうと人生は無意味だと思い絶望して死ぬしかないのだが人には希望があるのでそうはならない。すべての人類にはさまざまな形の希望があるので人生は無意味ではない。たとえば学生時代の楽しい思い出やオカルトや超常現象も希望のひとつである。だから学生時代の楽しさやオカルトや超常現象がつまった「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品は絶望せずにまっすぐに前を向いて人生を生きるための希望なのである。
追記3:
涼宮ハルヒという存在は主人公キョンにとって希望が具現化した存在だったと思う。主人公キョンは学生生活(つまり人生)に意味を見いだせず絶望していた人物である。そこへ涼宮ハルヒという人物と出会ったことにより彼も希望をもつようになった。希望は人生に意味を与え永遠に心のなかに残る存在である。本作品ではその希望が涼宮ハルヒという時空を超越したキャラクターとして表現されている。作中で涼宮ハルヒは主人公キョンの人生に活力を与え、鼓舞し、人生の生きる方向を指し示す。主人公キョンは男子高校生であるが、作者は思春期の子供から老人まで幅広い年代にむけてこの作品を作ったにちがいない。作者はこの作品によって視聴者の人生に希望を与えようとしたにちがいないと思う。涼宮ハルヒは人生に意味を与える希望を象徴しているのである。
追記4:
「人はいつか死ぬので人生は無意味だ。そんなことはない。希望があるので人生は無意味ではない。」というのが本作品の趣旨であるがでは希望とは具体的にどういったものであろうか。私にとっての希望とは世の中の人が幸福になったり、大好きだった人に再会できたり、生活しやすさが今より良くなったりすることであるが、希望は人それぞれであろう。希望とは「未来に望みをかけること。」だそうである。未来には時間がかかわっている。本作品には時間や空間にまつわる話が多い気がする。異空間に閉じ込められたり、時間が繰り返したりという超常現象がこの作品にはよくおこる。希望とは「未来」に望みをかけることであるが「未来」と過去や現在や空間をすべてごちゃまぜにしてしまったらどうか。そうすると過去の楽しい学生生活も「未来」となり希望が繰り返すのである。視聴者に希望をもたせたい、未来に望みをかけさせたいので「涼宮ハルヒの憂鬱(消失)」という作品は未来が過去と現在をも内包しかつ時間や空間も超越させている物語となっているのである。つまり希望とは過去・現在・空間の記憶がもとになっている未来のことである。
追記5:作品一覧
※ライトノベル版 (スニーカー文庫) 2025年現在スニーカー文庫版全14巻。
2003年 涼宮ハルヒの憂鬱 328ページ
2003年 涼宮ハルヒの溜息 296ページ
2003年 涼宮ハルヒの退屈 328ページ
2004年 涼宮ハルヒの消失 264ページ
2004年 涼宮ハルヒの暴走 344ページ
2005年 涼宮ハルヒの動揺 312ページ
2005年 涼宮ハルヒの陰謀 440ページ
2006年 涼宮ハルヒの憤慨 312ページ
2007年 涼宮ハルヒの分裂 312ページ
2011年 涼宮ハルヒの驚愕(初回限定版) 608ページ
2011年 涼宮ハルヒの驚愕(前) 312ページ
2011年 涼宮ハルヒの驚愕(後) 296ページ
2020年 涼宮ハルヒの直観 440ページ
2024年 涼宮ハルヒの劇場 328ページ
※テレビアニメ版は涼宮ハルヒの憂鬱(2009年版)全28話の構成は涼宮ハルヒの憂鬱(第1期)旧14話+新14話の構成である。さらに旧14話の順番が異なっている。
2006年4月~2006年7月 涼宮ハルヒの憂鬱(第1期) 全14話 (24分×14話)
2009年4月~2009年10月 涼宮ハルヒの憂鬱(2009年版) 全28話 (24分×28話)
※映画版は2009年版の涼宮ハルヒの憂鬱を放送終了後の約4か月後に劇場公開された。上映時間2時間42分。テレビアニメ版を補完する内容。テレビアニメ版28話時の冬の話。
2010年2月 涼宮ハルヒの消失 162分(2時間42分)
追記6:
自論であるが成人とは異質の恋愛が高校生には存在すると私は思うのである。例えばキョンはハルヒとそばにいたいのでクラブ活動を利用していると見ることもできる。主人公キョンにとってSOS部というクラブは彼の疑似恋愛の野望を満たしてくれる理想の空間なのである。
追記7:
映画で活躍した朝倉涼子というキャラクターは涼宮ハルヒと対比すると面白い。二人のキャラクターは「涼」の字が共通である。どちらもクラスでトップクラスの美人で人気で優等生という設定である。映画では朝倉涼子は主人公キョンをナイフで刺そうとするし涼宮ハルヒは主人公キョンのいる世界を変えた人物である。映画では朝倉涼子が主人公キョンをナイフで刺し、涼宮ハルヒがいる世界に戻ったのであるが涼宮ハルヒが主人公キョンにとっての「希望」であるとしたら朝倉涼子は主人公キョンにとっての「絶望」だったのではないかと私は思う。それは二人のヒロイン的キャラクターは共通点が多いため物語においてテーマを対比する役割があると思うからだ。ではなぜ朝倉涼子はクラスでトップクラスの美人で人気がありそうで優等生なのに主人公キョンに「絶望」を与えるのだろうか。クラスでトップクラスの美人で人気の女子生徒は多くの男子高校生にとってあこがれの存在である。同時に自分がかなり成績優秀だったり人気者だったりハンサムでスポーツ万能などでもないかぎり縁が遠い存在であるので自分とあこがれの女子生徒との間にあるギャップを感じ絶望を感じるから朝倉涼子は主人公キョンに「絶望」を与えるのであろう。このことは人の人生にもあてはまる。朝倉涼子はあこがれてはいるが絶対に実現不可能とあきらめている「かなわない夢や理想に対しての絶望」なのかもしれない。たとえば将来プロスポーツ選手や医師や弁護士になりたかった人物が人生で挫折を味わう。しかしその人物はまだプロスポーツ選手や医師や弁護士をあきらめきれないが現在とのギャップに苦しみ絶望する。それに対して涼宮ハルヒは「可能性や希望」を象徴している。プロスポーツ選手や医師や弁護士になれなくともそれらに代わる崇高な目標がきっとある。人に尊敬されたい、金持ちになりたいなどの願望は他の崇高な目的に昇華可能であることにいつか人生で気が付くであろう。このように作者が涼宮ハルヒを使っていいたいことはつまり人生の希望をもてということであろう。この映画では、人は人生で絶望もするが希望ももつこともできるとのメッセージを視聴者に投げかけていると思う。
追記8:
学生時代というものは何にでも興味を持ち友人も作りやすく良い青春時代であることが多い。勉学や芸術や音楽やスポーツや文化活動やホビーなどが友人たちと比較的自由にできる時期である。国家や社会全体が学生にそうさせようとしている雰囲気を感じる。多感な時期にさまざまに文化的に豊かな経験をした人は将来の国を支える強靭な精神をもてる国民になるからであろう。ハルヒの作品でもSOS団はさまざまな活動をする。SOS団の目的は「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶこと」であるが彼らのSOS団での経験が将来社会全体を支えることになると思うとSOS団の一見くだらない活動も重要に見えてくる。SOS団のような一見くだらない活動にこそ意味があるとこの作品は言っている。豊かな経験をした人物は未来で社会全体によい影響を与えることができるとこの作品は言っているのだと思う。それは映画やアニメをくだらないという人々にも届いてほしいものである。映画やアニメは人生を豊かにして未来の社会全体に良い影響を与えるものでなくてはならない。青春時代でなくとも人生いつでもよい。映画やアニメを見た後に社会に良い影響を与える事を考えてみてもよい。
2025/9/5 追記9:SOS団は全員が神である
私はSOS団のメンバーは全員が神だと思うのである。涼宮ハルヒは世界の創造神であり神たちのリーダーである。長門は宇宙全体の空間をつかさどる神である。みくるは過去・現在・未来の時間をつかさどる神である。キョンは人類の神であり古泉は人類以外の万物の神である。SOS団のメンバー全員によってこの世が作られている。この世は時間、空間、人類、万物、神によってできている。涼宮ハルヒはいわゆる「全知全能の神」であり彼女がいなければこの世は存在しなかった。「SOS団」は神たちが人類の危機を救うという意味である。皆さんはぜひこの映画を観て救われてほしい。
