スプリング・フィーバーのレビュー・感想・評価
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必ず再上映して欲しい
男同士のラヴシーンを、しばらく我慢することさえできたら、思いがけぬ収穫が得られる映画と思う。舞台は、現代の南京で、出演者はまだ若い5人。主人公は、旅行代理店に勤めるイケメンの男、ジャン・チョン。彼の愛人で、本屋に勤めているワン・ピンと、その妻の教師、リン・シュエ。リンがワンの不倫を疑って雇った探偵のルオ・ハイタオとその恋人、リー・ジン。
探偵は、ワン・ピンの相手がジャンであることを突き止めるが、妻リンが逆上してジャンを追い詰めたことから、彼はあっさりワンの元を去りワンは苦しくなる。その過程で、何と今度はルオがジャンを慕うようになり、その恋人リーを加えた3人の旅が始まる。
南京と聞いて、まず思い出されるのは、1937年作家の林芙美子が、上海から陸路で南京に入った時のこと。日本軍の侵攻により当時の中華民国の首都、南京が陥落した直後だった。この映画は手持ちのデジタル・ビデオカメラで撮られていることもあり、夜の室外は暗く30年代とそれほど変わっていないようにさえ見えた。一方、室内では、特に男たちの根城であるナイトクラブの眩いような明るさが際立つ。
ジャンは、魅力ある人間が、しばしばそうであるように、相手の男、一人ひとりに対する執着心が薄く、ルオもやがて遠ざけられる。一方、ジャンは女性たちには恨まれる。自分の愛すべき相手を奪ってゆくからだろう。多分に、儒教的なこだわりが感じられる。最も際立つ場面は、おそらく、ジャン、ルオ、リーの3人が夜中にカラオケに行き、それぞれの思いを心に秘めながら3人で歌をうたうところか。
それにしても、濃密な人間関係を背景に、男たちの愛欲シーンがあれほど目立つのに、画面からは静謐さが伝わってくる。それは何故だろう。映画の中で、繰り返し縦書きで出てくる漢字の短文と「1923年7月15日 郁達夫」という記載が心に残る。彼は戦前日本に留学して東京帝大を卒業し、日本で文学的出発をしている中国人の文学者だった。この映画の原題もこの作者の書いた「春風沈酔の夜」であるようだ。敢えて読み下せば「春風も(に)酔う夜」か。映画のはじめの方で、ワン・ピオがジャンに読み聞かせる「春風に酔って、やるせない夜は、いつも明け方まで彷徨い歩く」という意味の日本語字幕が出た。中国語を正確に読み下せないことがもどかしい。映画の最後の方で、ジャンが回想するシーンとしても出てくる。これがこの映画の究極の印象を形作っているのだ。
長い中国の歴史、儒教、かつての首都の上に築かれた現代の南京で、孤独と闘いながら何とか生き抜こうとして、もがく個人の存在がこの静謐さの背景なのだろう。驚いたことに、郁達夫は彼が幾度も再来日した時に、林芙美子と席を共にしたことがあったようだ。もっと多くの人たちに観て欲しいと思った。
春の嵐のごとく激しく刹那的に
愛は満たされている時には幸福だが、満たされなくなった時にそれは途端に憎しみへと変わってしまう。これはまるで春の嵐のように激しく、そして去っていく愛の物語だった。
目まぐるしく移ろう人の心、愛の嫉妬の渦に巻き込まれる男女の姿を赤裸々に描き出している。
冒頭からジャンとワンという二人の男の濃厚な濡れ場のシーンがあるが、はにかみながら見つめ合う二人の姿が幸福に満ちていていじらしさを感じる。
そして二人をつけていた一人の男。彼はワンの妻リンに依頼されて探偵役を買って出たルオという青年。
ワンは夫として申し分のない人間だと言うリン。しかし、女ならまだしも男の愛人がいることがどうしても理解できない彼女は、彼のことを愛しているが故に彼を許せず怒り狂う。
ワンの心はすでにジャンの元にあり、彼なくしてはもう生きていけなくなってしまった。
しかしジャンは彼を必要としているワンを拒んでしまう。代わりにジャンに近づいたのはルオだった。
ルオにもリーという彼女がいて二人は深く愛し合っているように見える。
しかし、自棄になって酒場で問題を起こした彼をかばって逃げ出したルオは、ゲイが集うショー付きのバーで彼の女装の美しさに心を打たれ、そのまま彼の虜になってしまう。
ジャンに捨てられたワンが失意のあまり手首を切って自殺を謀るそのシーンの裏で、ジャンはルオとベッドを共にしているのが何とも残酷な現実だ。
リーには彼女に好意を抱く工場長の存在があるが、彼女の心はやはりルオにある。
ジャンと関係を持ってからなかなかリーに顔を合わす機会のないルオ。
どうしても彼に会いたいリーの為にルオはジャンも連れて三人で船に乗って遠出をする。
リーはルオの心は彼女ではなく他の誰かにあると薄々気づいていたが、ルオとジャンがキスをしている姿を見てしまったことで確信となる。
ジャンとキスをしたその後に、リーを抱いて眠るルオ。耐えられなくなった彼女はひとりカラオケで涙をこらえながら歌う。
そこへ慰めに現れたのはジャン。手を重ねるジャンに「この手で彼を抱いたの?」と訪ねるリー。
それから彼ら三人が心の隙間を埋めるように寄り添って楽しく過ごすシーンは印象的だった。
しかし、彼らの元をリーが突如去ってしまうと二人の関係も壊れる。
彼を遠ざけるジャンに「本心か?」と訪ねるルオ。どちらも本当はまだ心がつながっている。でももう二人ではいられない。
涙をたたえながら二人は離れていく。
その後ジャンはワンを奪われたことでどうしても彼を許せないリンの手で首を切られてしまう。
傷口を押さえながら倒れる彼を遠巻きに見ている人達が、その後に猫の死体を薄気味悪そうに避けながら見ている人達の姿と合わせて冷たく感じた。
物語は傷口を隠すかのようにタトゥーを入れたジャンが、新たな恋人と共に人生をやり直し、ワンが彼に読み聞かせてくれた本の一節を思い出すシーンで終わる。
全体的に説明的な台詞は少なく、登場人物の心理を彼らの表情や行動だけで描くシーンが多い。
カット割りがとても巧みだなと思ったのと、最初は分かりにくい場面もあるが、後半にはしっかりと彼らの心の中が痛いほど分かるのが、演出の上手さだと感じた。
愛の渦に翻弄される5人の若者がそれぞれに画面の中で人生をしっかりと生きており、とても魅力的に感じた。
ヘッセの「春の嵐」との考察
5人の男女の互いに求め合うベクトルが交差したまま、純粋に愛を求めるが故の悲劇。それは、昂ぶる激情にも似た情欲をぶつけることによって自分の位置を確認しあう。狂おしい「春の嵐」が通り過ぎた後、僕は、ヘッセの「春の嵐」の一節の”人は老いるに従って、人生を人のために生きたいと思うようになる”を思い出すのだった。
むずかしい・・・・・・
『天安門、恋人たち』(06)
この作品から発せられたパワーが
忘れられず、東京フィルメックスにて鑑賞してきました。
また、この作品を制作した際、
中国政府から5年間の表現活動禁止を
言い渡されたはずなのに、どうやって
撮影をしたのかにも、関心がありました。
上映後には
ロウ・イエ監督の
ティーチインも控えており、とても楽しみに上映開始を待ちました。
☆彡 ☆彡
またまた
さらに難解な作品だなぁ・・・
主要キャストは5名。
ホモセクシャル、男性同士の同性愛を描く。
それだけ知った上で鑑賞をしました。
単なる私の理解力不足かもしれませんが、
ストーリーが難しくて、よくわかりませんでした。
しかも、主要キャストで出演する2名の女優さんの
ルックスが似ているのが複雑さに輪をかける(苦笑)
ロウ・イエ監督は
「純粋なラブストーリーです」とコメントをしていましたが、
たしかに登場人物たちは、純粋に相手を愛しているあまりの行動だったと
解釈できなくもないのですが、恐らく監督の表する“純粋”と“わかりやすさ”が
同等でないがゆえに、観ている側からするとわかりにくくなったのかったのかもしれません。
ただ、絶対いるんです。
この系統の作品が大好きな人。
でも、好き嫌いの触れ幅が大きいんです。
実際、
私の右隣の男性は、
割れんばかりの拍手をしていました。
その一方、
左斜め前の男性は、
拍手をしないのはもちろんのこと、
ロウ・イエ監督の一言一句に悪態をついていました(苦笑)
☆彡 ☆彡
「まだ日本での配給が決まっていないから、是非お願いしたいです」
東京フィルメックスのディレクターさんが、声を大きくし訴えていました。
いや、でも
配給に乗り出す会社は相当、勇気があると思います。
ロウ・イエ監督が
中国政府監視の目を縫って
製作をした熱意には敬意を表しますが、
公開が単館規模になるのは目に見えていますから。
これが、
今年のカンヌ映画祭で脚本賞か。
う~ん、映画の世界は奥が深いです。
わかる人には、完璧にわかるんでしょうね。
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