劇場公開日 1950年12月1日

「どこでも二人の心は繋がっている。」嵐が丘(1939) Socialjusticeさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0どこでも二人の心は繋がっている。

2021年3月30日
PCから投稿

1939年の映画で、私は小学生の高学年の時、エミリーブロンテの原作(1847年)を読んでいて、高校生か大学生の時、原作をもう一度と読んだ。原作と映画は違うし、ヒースクリフの執念深さが恐ろしくなった 。映画ではヒースクリフ役のローレンスオリビエの暗いイメージを記憶している。この映画や原作で記憶にあるのは、ヨークシア地方の嵐が丘の、冷たい冬の風と二人の引き裂かれない愛の証だったペニストン クラグという岩の城。お互い、自分の肉体がどこにいようと心の中で二人は繋がっている。でも個人的には当時、時代背景や土地勘がなくて、日本の文学全集のような深い感銘を受けず、地域的にも、二人の強烈な愛や仕返しが怖かったというイメージが強かった。今回、何十年ぶりに映画でみようかと思い、やっぱり、ローレンスオリビエのが観たい思った。

エミリーブロンテやシャーロットブロンテ、ジェーンオースティンなどのクラッシックにストー夫人、マークトウェイン、ジョンスタインベックなどを読んで育ったが、UK文学より、米国文学の方が力をもらえるので好きだった。

嵐が丘はかなりリメイクされてるがローレンスオリビアの嵐が丘かしか観ていない。時代背景は難しいが、二人の愛情、憎しみがな表裏一体でなにか今の社会でも共通性がある気がする。感情が容易に溢れ出るほど強い二人は二人が結ばれる宿命にあるはずだが、キャシーはヒースクリフより裕福な生活のエドガー方に目が向いてしまう。でも、離れていてもお互いの存在が感じあえるのがわかるっている。心が一体になっている。何で心が作られていようが二人の心は同じだとキャシーは言う。そして自分はヒスクリフだとも.そして彼が苦しむことは私も苦しむと。シンプルだが一心同体の力強い愛の表現だ。キャシーはヒースクリフを罵って罵倒しても、お互いが感じあえる存在であるから、許しをこう。それに、何か原始的な愛情の表し方をする。例えば私はあなたの奴隷ですというような。これは時代背景から言えるのかなと思ったが、キャシーの夫はまるっきり違う。クリスチャン教養の違いかと思ったが、どうかなあ?間違いなくキャシーとヒースクリフは似たタイプの人間で同じ感性の持ち主なんだと思う。ヒースクリフが『なぜ神が私に命をくれたのか』とイザベラにいうシーンは明らかにかれは『生きるしかばね』になっている。イザベラにひとかけらの愛情もあげられない。ローレンスオリビエの演技は(目の動き)は彼の気持ちをよく表しているし、エミリーブロンテの表現をそのまま残しているようで、このクタシックスタイルの言語も上等だ。

この映画でショックなシーンは夫のエドガーがキャシーがヒースクリフをまだ愛していると知るシーンである。エドガーの妹とヒースクリフを結婚させないでと泣きつくシーン。強烈であり、育ちが良くキャシーを心から愛してるエドガーの失望して立ちすくむ様子が痛いようにわかる。キャシーの死の床のそばにすわるシーンでも、エドガーは『祈り』を捧げる。でも、ヒースクリフは『貴方は私が生きている間は休むことができない』と 彼女に負いかぶさって、泣く。この二人のキャシーに対する愛情は同じだと思うが、表現の仕方、感情の表し方が違う。

蛇足:
キャシーはアメリカ映画の風と共に去りぬのスカーレット・オハラ(ビビアンリー)
のように気性が強いね。

Socialjustice
マサシさんのコメント
2022年9月19日

映画に原作がなければ、共感できます。
不躾で申し訳ありませんが、フォローさせて下さい。

マサシ