「身体に空いた穴、つまりへそが性癖である」空気人形 abokado0329さんの映画レビュー(感想・評価)
身体に空いた穴、つまりへそが性癖である
是枝裕和監督作品。
物体と人間の境界。
誰かの「代用品」である空気人形が、なぜか「心」を持ってしまう。それは不思議なことである。しかし労働力商品として資本主義社会の「代用品」である私たち人間は、なぜか「心」を持っている。その境界がどれだけ違うのかはよく分からない。そして後者を不思議と思わないことが、むしろ不思議である。
だからノゾミと純一は、同質さを感じるのだろう。物質で構成された身体と心の解離によって生じる空虚さによって。
ノゾミは身体に空いた穴から空気が抜ければ死んでいくし、息を吹き込めば生き返る。純一がノゾミの身体から空気を抜きたいと思うのは、希死念慮からであろう。そう考えると自殺とは、自らの心を抜き物体へ還す行為と言えるのかもしれない。ノゾミは純一と同質さを感じるが故に、身体の構成も同様と考えたため、純一の腹に穴を開ける。だがそれは純一にとって完璧な自殺であり、空虚さから開放された「幸せなこと」なのであろう。
しかし、である。私は自死を「幸せなこと」とは捉えたくないのである。「生きていること」を無条件に肯定したいのである。心は目で見えないし、身体が置かれている世界から疎外されて空虚さを感じることにもなる。だが目で見えない=不在と空虚は別のことである。
私は、ノゾミが好意を寄せる純一の息で身体を満たすことを幸せなことだと思う。そしてこれが「生きていること」を無条件に肯定するための行為だとも思う。私たちも自らの身体に絶えず息を吹き込むべきだ。誕生日ケーキに立てられたろうそくの火を消すように。それは誕生の肯定と捉えることができる。またその息は、「好きなこと」と抽象的にしか言えないかもしれない。だがそれは他者(性)を簒奪した物体にしてはいけない。とても難しい禁止だが、「人間」を「空気人形」にしてはダメなのである。
息は絶えず身体から抜け出し、空虚さが充溢していく。だから絶えず息を取り込み、「好きなこと」で満たしていく。この運動こそが生きることである。そしてそれは〈顔〉に現れていくのではないだろうか。本作では、空気人形が廃棄され戻ってきたとき、「幸せな人生」を歩んだかどうかで同じ物体なのに表情が違うことが述べられている。だからノゾミと純一が物体としてゴミ捨て場に捨てられる様は「美しさ」を感じる。しかしそれは人間が物体にならずとも人間のままできっと言える。生きている時にみせる〈顔〉に美しさが現れるはずだからだ。
人間の「心」のあり様が物体の〈顔〉に現れることは不思議なことだ。そう考えると物体と人間の境界は有機的なのかもしれない。だがそれを考えることができるのは人間のみだ。