「何となくヒッチコックを模倣している様な…」抱擁のかけら 松井の天井直撃ホームランさんの映画レビュー(感想・評価)
何となくヒッチコックを模倣している様な…
元映画監督で、現脚本家の主人公が語る。
「私の名前はハリー・ケイン」
…「おいおい!オーソン・ウェルズかい」
いきなりてらいも無く語られたらお手上げで有る。
しかもトニーノ・ヴェッラの名前は出るわ。ジャンヌ・モローの“声が聞きたい”と言って『死刑台のエレベーター』の話題が出たりと、映画ファンがニヤリとする場面が多い。
だが、単なるコアな映画ファン向けの作品でも無い。知っていればより楽しめると言ったところ。
「ジャンヌ・モローの声が聞きたい」確かに彼がそう言うには訳が有る。
本名を捨てて、ハリー・ケインと名乗るにも訳が有った。
彼には忘れ去れ無い記憶が有った。
この映画を観て他人がどう感じたのか?普段は他人の意見などそれ程気にしないのだが、個人的に「これヒッチコック的な雰囲気が漂ってはいないか…」と。他の人達はどう感じたのだろう?…と、観終わった直後に直ぐ思ってしまった。
ヒッチコックが初めてハリウッドに招かれて撮影した作品である『レベッカ』のプロデューサーが、かの大プロデューサー:デヴィッド・O・セルズニックだった。
セルズニックは、自分が気に入った女優を発掘すると猛烈に入れ込み、大金を投じて作品を作り上げていった。特にジェニファー・ジョーンズには相当入れ込み、大女優にまで育て上げ、やがて2人は結婚までしている。
元々女優志願だった、ペネロペ・クルス演じるレナとゆう女には、ホセ・ルイス・ゴメス演じるエルネストとゆう大金持ちの愛人が居た。
エルネストは彼女の為に有る映画のプロデューサーになる。監督をするのが、主人公のルイス・オマール演じるマテオ・ブランコ=ハリー・ケイン。
映画の途中からレナは奥様と呼ばれているから、正妻にまで収まったのだろう。それでも彼女の上昇志向は止まるところを知らない。その事が後々響いて来る。
嫉妬深いエルネスト。彼の取る行動と、レナとマテオが隠れる様に話し合う姿。この一連の動きが、ヒッチコックの名作『汚名』を想起させずには於けない。
しかも、ホセ・ルイス・ゴメス自体が『汚名』のクロード・レインズとどうしてもダブって見えてしまう。どことなくクロード・レインズに似ている彼を敢えてキャスティングしている風にも受け取れる。『汚名』ではイングリッド・バーグマンを愛し過ぎた故にクロード・レインズは最後に破滅を招く。
だからこそレナとマテオの密かな話し合いが、イングリッド・バーグマンとケイリー・グラントの姿とだぶる。
因みにヒッチコック自身も、バーグマンに入れ込んでいた事実をフランソワ・トリュフォーのインタビュー『ヒッチコック映画術』の中では隠そうとはしていない。
いないどころか、ロベルト・ロッセリーニの基へ走った大スキャンダルに対しては、「馬鹿げた事だ…」と語っている。
映画本編の中で、ロベルト・ロッセリーニの作品『イタリア旅行』が映る。遺跡発掘現場での男女の死体を発見するバーグマンの姿。この場面を抱き合いながら観ているレナとマテオ。
偶然にしては出来すぎている。尤もこちらがそう思い込んで観ているから、後付けでどんなにも理由付けられるのかも知れないのだけれども。
映画は更なるお楽しみとして、映画中映画の中でペネロペ・クルスにオードリ・ヘップバーンに似せた格好を2〜3度させたり、ブロンドのウィッグを着けさせては、マリリン・モンローの格好をさせたりもする。
思えば映画の冒頭で、主人公はアーサー・ミラーの息子のエピソードを映画化する脚本を考えていた。アーサー・ミラーは、言わずと知れたマリリン・モンローと一時期結婚をしていた間柄。
その息子のエピソード自体は、監督のペドロ・アルモドバル自身がゲイで有る事を隠さずに居る事から。エルネストジュニアを通じて、自らのアィデンティティを示す為の対象として、脚本上に出て来たエピソードの様に思える。
このエルネストジュニアの存在自体が、この映画の中に於いては唯一無理矢理感を感じる存在でした。
そう言えば、デビュー当時のオードリ・ヘップバーンを使ってお姫様の映画を撮ろうとしたのもヒッチコックだったらしい。『ヒッチコック映画術』の中で、『ローマの休日』は俺のアイデアだ!…的な発言をヒッチコックは行っているが…。尤もヒッチコックの発言は、どこまでが本気で。どこからが冗談なのか本人のみが知る…なのですけどね。
(2010年2月20日新宿ピカデリー/スクリーン10)