「家族を得るまで」なくもんか movie mammaさんの映画レビュー(感想・評価)
家族を得るまで
ずっとずっとずっと、
寂しさに堪えてきて、居場所に飢えてきた。
そんな気持ち、出すもんか。
惨めを認めるもんか。
そうやって笑顔を貼り付け、善人でいよう、誰かの役に立とうとすることで、
何もしなくてもいい、ありのままを認めてくれる存在がいない家族構成だったから、
貢献度で自分を承認する人生だった、兄。
その物悲しさがよくわかるのは、
肉親の生き別れた弟のみ。
だらしない父親のせいで、兄は父親に引き取られるも商店街のハムカツ屋さんに押し付けられ、
弟は母が回す家系では貧困で、その母に先立たれ生きてきた。
どうにかお笑いで兄的存在の他人と出会い、
一緒に売れたが、嘘の生い立ち本よりずっと、
現実の方が辛くて、嘘の生い立ちでも嘘の兄でも、
縋れるならなんでも誰でも良かった弟。
でも、兄も弟も別々の人生で押し殺して生きてきた苦しみ、寂しさ、疎外感は、大人になるにつれ、誰かの同じ気持ちに気が付いて、できることを考える優しさとして開花していく。
先に兄は、育ててくれた惣菜屋さんに出戻った娘と連れ子達の父親代わりを即諾する。
家族といつか認めてもらえたら。
その努力や虚しさを知った弟は、
兄を笑わせてみたいと思い出す。
・血のつながった肉親と、
・居心地の良い穏やかな安心 が揃うのは、
当たり前のことではなくて、
実は
夫に先立たれ娘が出て行ったおばあちゃん、
実家には働き者の山ちゃんがいて、家を出ても大臣の本妻にはなれなかった徹ちゃん、
沖縄から戻って急に父親が変わった静香と徹平、
それぞれ孤独を抱えている。
でも、その気持ちを経験済みで、気付ける人も意外といる。その循環が優しさや、居心地なのかな。
作中エコ環境大臣がサミット開催し、
地球に優しくとテーマがあるが、
優しさは、好かれたいからしてるのではなく、
好きでしているんだ。
山ちゃんがそう言えるのは、
存在意義を確認したい、居候ではだめだ、
何かで貢献しなければ、そして好かれたい
としてきた優しさが、もう板についたから。
亡き母の名前のゆうこ名義で、
山ちゃんはまさかの女装バーのママをしていたが、
その衝撃の光景に、とても安心した。
あ、発散場所を持っているんだなぁと。
家族がわからないと言う兄の祐太と、
優しくされたことがないと言う弟の祐介。
お腹でどう思っていても笑顔でいるのが家族だと思っていた裕太こと山ちゃんだが、弟はストレートに言葉をぶつけてくれる。
それにすらいつも笑って返す兄のこれまでは、
別人格ゆうこを作り上げて、
そちらに言わせてバランスを保っていた。
これからは弟に言える。
徹ちゃんや子供達に言える。
家族ができた。良かったね。
父親に、兄に謝れよと弟が言ってくれたことは嬉しかったと思うが、そこで、
謝られたら、許すとか許さないになるからと山ちゃんが言う場面がある。
謝られたら、これまで生を受けた人生に居場所を作るべくずっと、歯を食いしばる思いも出さずに、ひたすら笑顔で泣くもんかと努力を積み重ねてきた人生を、やっぱり不幸だったとあっさり決められる事になるもんね。
ただ生きているだけであるはずの安心を与えられなかったことが、許せばありになったり、許さないの主語が山ちゃんになったり、おかしいよ。謝ったら消せる苦労ではない。出せた相応しい言葉が、死ね!だったの、良くはないけど理解できる。