「それでも、革命家であリ続ける理由とは?」チェ 39歳 別れの手紙 jack0001さんの映画レビュー(感想・評価)
それでも、革命家であリ続ける理由とは?
革命;Revolutionという言葉
政治色の濃さと殺し合いが公然と(あるいは人知れず)行われた史実上、大凡はイメージ悪であり、今の日本では非現実的だ。
でも時折良い意味でも使用されるから、気になって語彙を調べてみると・・・創世期あたり、神と人間とが近い距離にあった時代へ戻るような「回転する」という意味があるらしい。
天命を知り、それを意識した人のみが扱える行司的なものだろう。
その条件として、純粋で熱意のある人物が望まれるようだ。
更にチェ・ゲバラ;Che Guevaraの場合、愛情を持って全うできるか?という独自なテーマをも掲げていた。
「チェ 28歳の革命」に引き続く今作「チェ 39歳 別れの手紙」は、1964年のニューヨーク国連会議出席以後の動向記録だ。
1966年、キューバ革命での経験とモチベーションを保持しつつ、次なる舞台はボリビアへと移る。
前回同様に、当初は内密理に潜入し森や林の中をゲリラ隊を組織しながら進軍していく。
進軍するも明らかに違和感と焦燥感が漂う・・・スティーヴン・ソダーバーグ;Steven Soderbergh監督は前作とは全く異なる編集を汲んでいる。
あの独特な、スパークするほどの、巧妙なカット割りは一切なく、進軍するゲリラたちを淡々と飾ることなく映す単調さだ。
しかもその色彩感は、総天然カラーにもかかわらず、枯れた木々や土の臭いに何だかどんよりとした閉鎖的な空ばかり。
行けども行けども、先に何があるやら分からない。
一体何と闘おうっていうんだ?という気すらしてくる。
気まずい空気が辺りに漂う・・・案の定、隊の統率に相当苦労する場面ばかり目立つ。
部下はだらしなく士気が無く、食料もか細く、勇ましい訓練や建設的な場面が少ない。
不安と重圧感は、紙一枚ぐらいの微妙さで徐々に重なって迫る。
これは失敗作かな?と思いつつ、なぜだか次第に惹き込まれている。
革命と称し、闘う相手は政府なのか人民なのか?その矛盾さをも織り込まれている。
摂取され続ける人々の為に!という信念で始めたキューバ革命から得たものは大きかった。
間違ってはいないが、その思いはこのボリビアの地に於いて蔑視されている。
政府軍もゲリラ軍も結局味噌クソ一種扱いにする農民たちとは、心が通っているようには受け取れなかった。
*それ以前のボリビア革命に於いて、すでに土地などを分配されていた農民たちにとって、今さら新しい革命など興味の対象ではなかったということらしい・・・
Power to The People!などという言葉がなぜか脳裏に空しく響いた。
「現実の世界」とはむしろこんなものかなとも思ってしまった。
そんな彼らの矛盾さというかリアルな従軍ぶりが、ドン・キホーテともダブって見える。
だからむしろ不完全で人間臭くて惹かれたのだろう。
そして彼は最期を迎える。
実際どうだったのかは知らないが、敗北原因は相手が強かったわけではないと思う。
素材が少なかったわけでもない。
国民性もあるのだろうか?
とにかくゲバラの思いはどこか空回りしていた。
そんな彼の思いに耳を貸さない、腑抜けたボリビア人民達からは諦めしか映らなかった。
ある種の憤りも感じる・・・でもそれはそれで正しいのかもしれない。
楽しいとか、感動とか、美しいとか、そんな類だけを映画に求めては逃避的だからだ。
映画から意見を見出し、疑問を感じることだって必要だから。
ただベニチオ・デル・トロ;Benicio Del Toro演じるゲバラ像は、一貫していて曲っていない。
死ぬ直前までゲバラはゲバラであり続ける、その期待を裏切らない演技だ。
デル・トロは前作よりも今作のほうに渾身を込め撮影に臨んだ気迫すらある。
しかも相変わらず一物抱えたようにスカー・フェイスだ。
静かに蒼く燃える炎だ。
処刑直前、見張り兵との何気ない会話のやり取りなどは、観ていて頷いてしまう。
あれはデル・トロの演出の冴えか?それともゲバラの亡霊がそうさせたのか?
ゲバラの人間らしい慈愛の欠片が印象的だ。
世界で有名なアイコンとして商品化され人気を保っているゲバラ。
本当のところはどんなことをした人なのか?その軌跡を簡潔に知る手立てとして有効な作品だ。
世の中には二通りの人間がいる・・・響く奴、響かない奴。
響く奴だけが響けばいいのだろうか?だが本意は違うはず。
一人でも多くの人が響くに越したことはない。
天命賭けて革める(あらためる)には、許容範囲の広さがものを言うのだと思う。
信念を曲げずに、あらゆることを受け入れ、適切に導くこと
そんなリソースフルな(自身が枯れない井戸となる)人物を目指したい。