「若い頃からくだらない映画ばかり見ているとくだらない映画しか作れないという見本のようなもの。」イングロリアス・バスターズ jackyさんの映画レビュー(感想・評価)
若い頃からくだらない映画ばかり見ているとくだらない映画しか作れないという見本のようなもの。
タイトルにもあるように、この監督は幼少時から母親からかなり甘やかされて育ったらしく、くだらない低俗なTV番組や映画を見て育ったせいか、結果的に世界観が偏った見方に支配された人格になってしまったようだ。
別に本や歴史書を読まなくともよいが、せめて、「史上最大の作戦」や「遠すぎた橋」「バルジ大作戦」等の往年の名作を手本に確固とした時代考証を立て、又は史実を忠実に再現せずとも、少なくとも鑑賞者に「説得力」を与えるようなプロットを設定すべきだ。
自分の脳内で勝手に歴史を改ざんして、面白おかしく「パロディー」に仕立て上げようとした努力は認めるが、この映画は「パロディー」にすらなっていない。
"ヒトラーやゲッペルスは実はこんな人間だったのだ。" というような真実みも意外性もこの作品では微塵も感じられず、只々この監督の"ナチス憎し"の一方的な怨恨だけが作品中から漂ってくる。
怨恨だけで、戦争を語ると碌な文学作品や芸術作品が出来ないという悪い例えを体現している。
戦争という単純な悪役も正義も存在し得ない難しい舞台の題材を、監督の私情だけで全編乗り切って、しかも、長尺という事実は全く、いただけない。
狡猾で計算高いヒトラーがこんな分かりやすい敵側の戦術に乗って、しかも易々と機銃掃射で蜂の巣にされるわけがない。
また、敵方のドイツも戦闘員でもない只の観客が劇場で火あぶりにされるナンセンスさに、これが「虚構」であるという仮説が立てられている事実から客観的に視聴してみても、全くのデタラメ・荒唐無稽な描写である。
この映画は単純な"戦争映画"というより、反ナチズムを嗜好するハリウッドの最高筆頭株主のユダヤ系のお偉方や役員の為に作られた「ユダヤ系のための"平家物語"」のように感じる。
一般大衆に見せるというよりも、当作品の直接の投資家・資本家・株主に見せ、納得させる為だけに作られたようなものかもしれない。
我々、戦争での負け組のナチスも含む枢軸国(日本も当然含まれてる)は、この映画を臍を噛むような苦々しい面持ちで視聴するしかないのか?
戦後から半世紀も経つのに、未だにドイツ人は「ユダヤ」に謝り続けねばならぬのだろうか?
見終わった後、何とも言えない「けだるさ」というか「倦怠感」を感じる。
戦争の悲惨さと無情さに考えさせられたというよりもこのタランティーノという映画監督の「デタラメぶり」に辟易させられた感だ。
あまりにもこの監督(いや、監督なんて高尚な肩書は、彼には似つかわしくない。 只のど素人だ。)の作風は荒唐無稽で独善的で正直申し上げて「狂気」すら感じる。
まるで戦争そのものを"GTA"に見られる『残酷ゲーム』のようなゲーム感覚でしかこの監督は捉えていないような感覚さえ感じ取れる。
バットで殴り殺されるドイツ人将校がまるで『いけにえ』か『動物実験のサルかモルモット』のような存在にさえ感じ取れる。
殺される側にも殺す側にも『人としての尊厳』とか『殺されるなりの理由』という"死の必然性"がこの作品並びに氏の一連の作品には全く感じられない。
登場人物のほぼすべてが家畜並み・屠殺場で食肉に変えられようとしている牛豚羊並みの尊厳しかこの監督の一連の作品中には与えられていない。
氏の作品中には『人間』や『動物』の存在など虫けら同然である。
氏の作品には殺しを諫めたり、まともな訓告を垂れる人物が一人も現れない。
氏の作品には「神」の存在が皆無である。
むしろ、『神』などこの世にはいないとその存在さえも斬って捨ててしまうほど、救いようのない「唯物史観」だけしか氏の一連の作品には垣間見られない。
ひょっとして、彼自身『無神論者』であり、アナーキストなのか?
彼の一連の作品を見てきて、残念ながらそう感じざるを得ない。
これらのような作品ばかり見ていれば健常人が多かれ少なかれ精神が病んでこない方が間違っている。
おまけに、このような日本も含む枢軸国にとっては、屈辱的にも近いこの「ユダヤ平家物語」を無理やりにでも笑わさせようと強要し、誘発するバカげた「映画マニア」の仲間の軽率さにも呆れてものも言えない。
彼の映画作品に傾倒すれば傾倒するほど健常な映画好きはバカになっていくような気がする。
「バカ」になるくらいなら、映画など、この先見るつもりもないし、「映画好き」と自称する友達や仲間もいらない。
映画を見て、バカになるぐらいなら、こちらからそのような「友達」や「仲間」は絶縁するか絶交しても、一向に構わない。
『お前は映画という芸術を分かっていない』と、誰かに言われても、こんなろくでもない説得力しか持ち合わせない作品中から何を理解させようとするのか?
『映画愛』と言われるものは、暴力や残酷さを許容しろという事なのか、その暴力の先にある何か目に見えない「何か」を感じ取れという意味なのか、自分にはこの『映画愛』という意味とその本質が全く理解出来ない。
第一、そもそも「映画愛」とは何なのか?
中身や内容を精査も確認もせず、只々、有名人が作るものに対して、調子を合わせる、合いの手を入れているのが、現実ではないのか?
残念ながら、我々日本人の大半は、アメリカの手の内で踊らされて、このようにアメリカというだけで、一つの映画作品を通しても、くだらない「映画愛」といった造語で現実の陳腐さを誤魔化し、ろくに、その中身のお粗末さを精査も確認もしない。
3S政策(GHQの提唱した日本人愚民化政策)も、ここに極まれりといった具合で、全く功を奏したとしか言えない。
ただただ、ファンから聞こえるのは、この陳腐な「映画愛」という標語だけで、それ以上にこの作品の良さや優越性を客観的に他者に対し説得するだけの言葉やロジックやレトリックを使った人にいまだかつて会ったことがないし、聞いたこともない。
そういう事実だけに、彼(タランティーノ)がプロデュースしたバカげた表現描写もその裏に掲げられた日本人蔑視という「裏メッセージ」でさえも、ハリウッド製品というブランドだけで必要以上にアメリカを忖度するお花畑な平和ボケした日本のアメリカ映画ファンに無性に腹が立つ。
戦勝国アメリカが言った事・褒めた事をその中身を何の確認も吟味もせず、只々、有り難がる大多数の「ハリウッド映画ファン」「アメリカかぶれ」に対してだ。
虚仮にされても自虐的に自分たちの事を笑っている。
もう、いい加減「うんざり」だ!!
もう、いい加減、アメリカ映画ファンは自分たちの頭と良心で自分たちの趣味を考えていこう。
これ以上、あちら(アメリカの)のイカレタ変態どもに必要以上に趣味を合わせる、嗜好を合わせる愚行を辞めようではないか!
幸い、我々は、日本人の良識があり、唯一、奴隷制度という非人間的システムも彼ら欧米ほど遺伝子的に共有していない。
其の為には、もっと想像力を働かせよう。 人間らしく考えよう。 本を読もう。 活字を読もうではないか!!
このような偏向した"お友達"に同調すればするほど、こちらの健全な"生命に対する純粋な愛情"や"同胞愛"さえも冷笑され、冷血な、まるで、古代ローマ時代のコロッセウムで奴隷同士の殺し合いに歓喜する異常な観客たちの感情を注入されそうな気さえする。
我々の先祖は「古代ローマ人」ではない!
八百万の神々を信仰し、自然の森や木々から生まれる産物に感謝する心優しき民族だった筈だ。
人間性まで放棄させられるような猟奇趣味に付き合うほど、こちらは、人間が堕落してもいないし、殺意を抱くほど他人に対する悪感情のストレスも幸い今では抱いていない。
この作品は全く根拠のない、第三者から見ても、彼らにパロディーに値するほどそれらしき皮肉を受ける印象も感じられないし、パロディーといえるほどの観察眼を監督の一連の描写から全く感じ取る事が出来ない。
タランティーノ自身が脳内で勝手に敵陣営の在り様を作り上げた全くの「架空の絵空事」であり、全くの「デタラメ」な世界観だけがこの映画作品の全貌である。
恐らく、彼自身、戦争映画そのものを冒涜し、ドイツ人そのものをも冒涜している。
この監督に馬鹿にされるほど、ドイツ人はバカではないし、むしろ、この監督のものの見方の方が浅薄で単純である。
かつて、我らと同盟を組んだ仲間だし、哲学的なものの考え方やアートに対する趣味・技巧も結構似ているではないか!!
この映画監督を日本のファンは必要以上に持ち上げるが、悪ふざけにもほどがある。
正直、この監督の脳内が「鮮血」で満たされているのか、古代ローマ人の遺伝子がそうさせるのか,わからないが、明らかにわかる事は、この監督は人格的・心理的に大いに問題がある。
セルジオ・レオーネ以外の粗悪なマカロニウエスタン作品やルチオ・フルチとか『悪魔のいけにえ』とかそんな内容の映像作品ばかり見て育てば、脳内が暴力の欲求で満たされてしまうのは生物学上当然である。
戦争映画を撮るのに、また、戦争を語るのに、ある程度、当時の歴史を作品に整合させるのは、アーティストの最低限の歴史への礼儀である。
暴力描写や戦争の凄惨な表現描写は上記のような歴史的整合性が出来て、初めて映像として説得性を持たせることが出来る。
これが出来なければ、幼児の「落書き」と同じだ。
人様からお金を取ってはいけない。
ただの、幼児の「妄想」だからだ。
タランティーノの本作品はこのただの幼児の妄想に近い。
やはり、バカげた漫画のような描写を嗜好するのは、氏が育ってきた環境に起因するのが大きいかもしれない。
タイトルにも書いたが、「くだらないコンテンツ」ばかり見ていると彼自身が作るコンテンツも「くだらない内容」になるのは自明の理である。
それとも、「映画」というメディアと業界がそれこそ「くだらない連中」で構成されているという事実をそれを見る観客や大衆は理解しなければならないのか?
そして、観客や大衆はこのバカげた連中に娯楽提供者というだけで無意味な理解を彼らに送らねばならぬのか?
アメリカ人という理由だけで。
オマージュする内容が「ゴミ」のような作品ばかりでは、自然発生的に、「ゴミ」に有用性と価値を見出せるような支持層から支持を受けるのも理解出来るような気もするが、残念ながら、自分は『悪魔』に魂を売ったり、『悪魔』の魔術とその強大な力を過大に評価したりするような感受性は持ち合わせていない。
私はやはり真っ当な『神』を信じ、『神』の奇跡と博愛の包容性だけしか信じる事しか出来ない。
そして、精神が犯されるぐらいなら、『映画』なんぞ見ずに、『小説』を読む。
『小説』の方が例え、グロテスクな描写が出ても頭の中で幾らでもイメージを緩和させれるし、その部分だけ飛ばして読める。
第一、グロテスクさがなければ、面白みが半減するなんてどこまで想像力が欠如した連中がこの世に蔓延っているのだろうか?
刃物で刺されれば痛いし血は出るし、殴られれば痛いに決まっている。
活字を読んだだけでも容易に想像できる事がわざわざ映像に変えて表現する必要性があるのか?
本も碌に読まないアーティストが良い芸術作品を作れる筈もない。
アーティストに必要なものは「教養」である。
教養に裏打ちされた作品や描写には、説得力があるが、彼の作る作品にはそれらが一抹にも存在しない。