劇場公開日 2010年12月11日

「「死との向かい合い」と「生きることへの意欲」との交錯」ノルウェイの森 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)

0.5 「死との向かい合い」と「生きることへの意欲」との交錯

2025年10月27日
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鑑賞方法:DVD/BD

<映画のことば>
おい、キズキ。
お前と違って、俺は生きることに決めたんだ。
そして、俺なりにきちんと生きようと思っている。
お前だって、きっと辛かっただろう。
でも、俺だって、かなりきついんだ。
それというのも、お前が直子を残して一人で先に死んでいったからだ。
でも、俺は彼女を絶対に見捨てない。
何故なら、俺は彼女が好きだからだ。
そして、今よりも、もっと強くなる。
俺は、大人になるんだ。

<映画のことば>
愛するものを亡くした哀しみを癒(いや)すことはできない。
どよのような真理も、どのような誠実さも、
どのような強さも優しさも、
その哀しみを癒すことはできない。
哀しみを悲しみ抜いて、
そこから何かを学びとることしか、
僕らにはできない。
そして、学びとった何かも、
次にやってくる悲しみには、
何の役にも立たないのだ。

語弊を怖れずに、ざっくりと評すれば、本作のキモは、ワタナベの中での「死との向かい合い」と「生きることへの意欲」との、彼我のせめぎあいの「辛さ」、「苦しさ」とでも評すべきなのでしょうか。

本作は、YouTubeでも盛んに情報発信をしている精神科医の「原作は「自殺」と「遺された人」の物語。そして、心を病んだ人にどのように寄り添うのか、愛する人が心を患ったときに何ができるのかという問題を描く。」というコメントに食指を動かされて鑑賞したものでした。

そのコメントのとおり、キズキや直子の死、まったくを以て「身勝手な男」の代表選手とも言うべき永沢との関係性や、その彼女・ハツミの自死。
そして、幼馴染みの直子、直子との繋がりから知り合ったレイコとの出会いと別れなど、登場人物の誰もが「喪失の痛手」を抱えていて―否、むしろ喪失の痛手を抱えている者同士が自然と繋がっていったのか―、そういう周囲の人間関係に翻弄され、ともすれば押し流されそうになりながら、あたかも嵐に弄(もてあそ)ばれる大海の上の小舟のようなワタナベの姿が、何とも、本当に、本当に胸に痛い一本でもあったと思います。

「この世に存在するわれわれ全てに共通することは何だろうかと考えてみた。最も厳然たる事実は、人は生まれ、そして死ぬということだ。生まれたその瞬間から人は死へと向かっているとも言われている。死は万人に平等に訪れる、最もフェアなものという言い方もされている。もちろん医療技術の革新で人は100歳まで生きられるようになるとも言われているが、100歳生きても、それは不老不死ではない。いつか必ず終焉の時が訪れ、その人の人生は終わる。では、生と死の次に、人間が避けて通れないものは何だろうか。筆者は、それが「喪失」ではないかと思う。一生のなかで「何かを失う」体験が全く無いという人はいないだろう。皆、何かを失いつつ、人生の最後の時まで歩んでいく。」[風間書房刊、佐々木格・矢永由里子編著、2018年「風の電話」とグリーフケア こころに寄り添うケアについて)]

生きることと、「喪失」と向き合うことについて、評論子には、深く考えることもできた一本でもありました。
そのようなワタナベの心情を見事に描ききった本作は、文句なしの佳作だったとも、評論子は、思います。

(追記)
<映画のことば>
「7年前になくしたものを取り戻したわ。ありがとう」

直子の死もさることながら、追い討ちをかけるようにワタナベに打撃を与えたのは、レイコとの訣別だったのではないでしょうか。

自力で病から立ち直り、ワタナベの前から去っていったレイコの、ある意味での「力強さ」とは裏腹に、心の内では迷い、さ迷い、悶(もだ)え苦しんでいたワタナベは、彼女のその強さにも、容赦なく、完膚なきまでに叩きのめされたこととも、評論子は思います。

おそらくは、ワタナベとの想い出を心に刻み込むためだったのでしょう。最後の最後にワタナベと一夜だけの体の関係を結び、後ろ髪引かれることもなく去っていった、レイコのその「強さ」に。

すなわち、直子に対するワタナベの想いの手前、自らのワタナベに対する想いを、心の内に密かに秘めたまま、静かに去っていくことのできた、彼女のその強さに。

(追記)
本作に通底するテーマは、一言で言えば「喪失」ということなのだろうと思いますけれども。

本作の緑の父親に関するウソも(おそらくは不治の病で)病床に臥せっている父親への喪失感のなせることではないかと、評論子は受け取りました。
そして、彼女がワタナベの交際の申し出を請(う)けたのも、その喪失感をいくばくかでも埋めようとする彼女の「代償行動」だっのではないかと、評論子には思われてなりません。

そういう受け止めが間違っていないとすれば、本作には、そこにも「死(喪失)」と「生への渇望」との交錯があり、彼女も、その両者のせめぎ合い、あるいは葛藤に苦しんでいた―ということになりそうです。

(追記)
他のレビュアーの皆さんも指摘しているとおり、本作の中の、明け透けな性に関わる表現(セリフ)には、実のところ、評論子も戸惑いを隠せませんでした。

しかし、それは、本作ではそのバックボーンとして随所に見え隠れする「死」に対して、その対極にある「生」(性の営み)を象徴し、浮き彫りにするための意図的な表現手法だったのだろうと、評論子は理解し、受け止めました。

そうは理解しても、評論子とて、やはり(石を投げれば当たりそうな、そこいらへんにゴロゴロと転がっていそうな、世間並みにはスケベ根性を隠しおおせない)ただの男性=オトコであってみれば、仮に女性の側からこんな明け透けな言葉をかけられたと仮定したら、とてもとても、平常心では居られなかったことでしょう。

言う方にしろ、言われる方にしろ、それをどちらもそつなく、淡々と演ずることができるのも、俳優さんであってみればのことなのでしょう。

そして、これも、映画作品というものならではの「表現手法」「表現力」なのだろうとも思います。

talkie
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