「タイトルなし(ネタバレ)」ノルウェイの森 佐藤さんの映画レビュー(感想・評価)
タイトルなし(ネタバレ)
長らくこの映画を避けていた。
それは一種の宗教的禁忌に近い心持ちだったと言っていい。
なぜなら、『ノルウェイの森』は、僕の心的風景の奥深くに封印された、最も繊細で破れやすい記憶の一頁に他ならなかったからだ。
直子。
その名は、単なる固有名詞に留まらない。
あれは、女という存在が、男にとってどれほど脆く、不可視で、そして美しく破滅的であるかを象徴している。
原作における彼女は、決して露骨な激情を見せず、寧ろ淡々と静かな地獄を歩く幽鬼であった。
しかし映画の直子は、まるで肉体そのものが感情の器官となったかのように、悲嘆と狂気を声と涙とで可視化していた。
その嗚咽、その慟哭――言葉が泣き声に呑まれる瞬間、それは、言語という文明の秩序が、死者への愛という混沌に敗北する刹那であった。
松山ケンイチ演じるワタナベは、原作で漂っていた「読めなさ」を清廉な苦悩として体現していた。彼は情熱を口にすることなく、誠実さを怒鳴らず、ただ佇みながら全霊で闘っていた。
その姿には、武器を持たぬ兵士のような痛ましさがあった。
“飄々”という仮面の下に沈む彼の良心は、現代の倫理では処理しきれない、ある種の古典的な贖罪の形式を帯びていたようにすら思える。
これといってひっ迫した感情が読めなかったワタナベが、この映画を経て僕の中で不器用で痛ましいほどやさしい男の子に変わった。
緑について言えば、原作で感じていたある種の人工的な「陽性の仮面」が、映画では肉体を通じて一つの生の意志へと昇華されていた。
水原希子の繊細な骨格と、どこか気だるく、それでいて烈しい目線は、哀しみに裏打ちされた生命力を体現していた。
母を喪い、父を看取り、姉とは交差せず、恋人とは共鳴しない――それでも彼女のその姿は、悲劇という枠組みを拒否し、「存在」を選び続ける凛とした少女像であり、観る者に強い恋情すら喚起させるものであった。
僕は本気で、彼女に惚れたと、そう言って差し支えない。
だがこの映画が僕に最も強く突きつけたものは、「阿美寮」という閉鎖空間に宿る純粋なる苦悩の違質さである。
直子やレイコは、我々とは異なる原理で構成された魂の住人であり、その目は、我々が生きる「言葉と現実の連続性」からすでに逸れていた。
彼らの目は、夜の底を見ていた。
かつて僕はその「病的なもの」を自分自身の苦しさとの親しみと錯覚していた。
だが今は思う、それは同じ傷ではなく、別の位相の闇だったのだと。
彼らは、“死と共存する者”であり、僕らは“死を避けながら生きる者”である。
この裂け目を無視して直子を救うことはできない。
それでも僕は、映画を観ながら何度も「どうしたら救えるか」を考え続けていた。