ノルウェイの森のレビュー・感想・評価
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映画というかたちの読書感想文
ああ、この「ノルウェイの森」は、何て鮮やかなんだろう。それが、この映画の第一印象だった。
自分が読んでいる本を、他の人はどう読み、何を感じているのか。気になるけれど、何となく聞きにくい。それは、学生の頃に読書感想文に悪戦苦闘した記憶や、今でもいざ誰かに尋ねられたら、身構え、口ごもってしまう姿が容易に浮かんでしまうからだろう。
トライ・アン・ユン監督は、(多分)自身が原作を読み感じたものを、ありのまま素直に映像として表現した。それは、私の感じた「ノルウェイの森」とは少し違うけれど、それはそれで新鮮で、原作にとらわれず、映画として純粋に味わうことができた。たとえば、私にとっての緑はもっとちゃきちゃきしているし、ワタナベの寮はもっとごちゃごちゃと狭苦しい。緑とワタナベが初めて出会う喫茶店はこじんまりとして薄暗い。けれども、ワタナベの寮を縦横無尽に踊るように歩き回る緑に寮の空間はぴったりで、彼らが外へ飛び出す姿は躍動感に満ちていたし、カフェテリア風の光に満ちた店も緑に似合っていた。一方、びっくりするくらいイメージ通りのものもあった。たとえば、柄本佑演じる突撃隊。ほんの数秒のワンシーンながら、十分なインパクトがあった。そして何より、彼らの会話。原作にほぼ忠実な言い回しが、活字から声に置き換わっていくさまに、なるほどと感じたり、こうなるのかと驚いたりした。文字だから成立し得ると感じていた言葉たちが、日常離れしながらも芝居っ気をそぎ落とした絶妙の案配で表わされており、なかなかできないことだと感じた。
「ノルウェイの森」は、当時あまりにベストセラーになりすぎて、長い間不幸な扱いを受けていたように思う。例えば一方的な決めつけ、断片的な話題を繋ぎ合わせただけの偏った捉え方。今回の、ごく個人的な・あるひとつの「ノルウェイの森」が、原作をこれまでの呪縛から解き放ってほしいと思う。この映画は、原作のイメージを狭めることなく、豊かなヒントを与えてくれる。それは原作の力であり、映画の力であり、文学作品の映画化における稀有な成功例と言えるだろう。
私はまた幾度となく「ノルウェイの森」を読み返し、またいつかどこかで「ノルウェイの森」を観たい、と思う。
デキなきゃ死ね
映画のあとから読んでみたが、原作つまんねえな。
この映画をけちょんけちょんに言うやつはどんだけ原作に惚れたのか
しらないが、小せえよな。
小説のセリフを映画にすると浮いて見えるって、どんだけ感情移入したいの
って話。そもそも異国人による、俺らには理解できない白いブリーフはく時代の映画なんだから、メルヘンでしかないっつの。
でそのメルヘン、好きな人とセックスできれば生きていきたくなるし、できなきゃ死ね、っでいいじゃん、その通り。
ミドリが愛の言葉にニヤリとすることにどんだけ深い意味があるっての?
役者について。
菊池さんは出来る子だから、えいやっちゃえ、って監督が思った程度だろうね。
松山さんはこの役は良いと思ったね。ワタナベはあなたでもある、みたいな設定なのだろうから、そういう風にしてるんだろうな、とは確かに見えた。
デスノートやウルトラミラクルやデトロイトは死ねっ、と思ったけど。
ミドリの子は好演。ド貧乳で選んだか、と思うぐらい素晴らしい。
棒読み?みんな棒読みのかわいいド貧乳の子嫌いなの?
感覚的映画NO1
原作を読んでいるから復習的な楽しさはあったものの、これだけ単発で映画を見たら相当退屈してただろうな
映像化にケチをつけるのが生きがいの原作ファンにはなりたくないけど、映画はむじい
こういう作品を「感覚的映画」って名付けよう
感覚的な作品は本であればまだ字で追えるから最低限の理解はできるけど、映像表現ってなると途端に味気がなくなるよね
否定してる訳じゃじゃないよ!僕には映像から全部読み取るのがハードル高いだけ
でもある程度引き込まれないとセリフひとつひとつが全部上滑りしてるように聞こえる
もっとアトラクション的な映画が好き
アトラクションってのはシンプルにアクションとかVFXだけの話じゃなくて、、、とにかく退屈させないでほしい
この後に見たゴジラvsコングめちゃ面白かった
原作未読。雰囲気が好き。
色々と起こる中ゆっくりと時が進む感じが良い
。
原作未読というのもあるかもしれないが正直何を伝えたいかも良く分からず「あ、これで終わりか…」という感じだった。
原作を読んだ方の良いレビューも多くあるので、買ったばかりの小説をこれから読み進めようと思う。
政治の季節を否定し性の季節へ踏み出した原作の残念な映画化
1) 原作の基底に流れる政治の季節への嫌悪感
日本文学は第二次大戦後、長らく政治の季節に突入する。60~70年代には安保反対の学生運動が盛り上がり、それを反映した作品が数多く書かれた。例えば、高橋和巳、例えば『されどわれらが日々』…。村上春樹が『風の音を聴け』でデビューしたのは、70年安保の余燼がようやく治まった79年のことである。注目されたのは、その政治性の欠如、徹底したノンポリぶりで、吉本隆明は「テーマの欠如自体がテーマ」と評していた。
村上がこうした政治の季節に大いなる違和感を抱いていたことは、82年の『羊をめぐる冒険』で登場人物が語る「搾取? そんなものは存在しない」のひと言に示されていたと思う。そして87年の『ノルウェイの森』は、彼の政治の季節への嫌悪を全面的に表明したものだったのである。
小説は68~70年の日本の学生生活を背景にしているが、主人公のワタナベは大学をバリケード封鎖した学生たちを、内心で「下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ」と罵倒したり、「1969年という年は、僕にどうしようもないぬかるみを思い起こさせる。一歩足を動かすたびに靴がすっぽりと脱げてしまいそうな深く重いねばり気のあるぬかるみだ」と、この時代への違和感を記す。
政治少年たちの愛読書が大江健三郎、ドストエフスキーだとしたら、ワタナベはフィッツジェラルドにアップダイク、寮の先輩・永沢はバルザック、コンラッド、ディッケンズ…よりによって政治的問題意識を排除した作家たち。そして、政治の季節の終焉を告げるように、性の季節とでもいうべきものを対置させるのである。
2) 政治の季節から性の季節へ
文学における性とは、それまでは政治的な性であり、反権力としての性だった。性的なものを隠そうとする権力を攻撃するための性、例えば「サド裁判」であり、『ボヴァリー夫人』であり、D・H・ローレンスであり、河出書房『人間の文学』全集だった。また愛とは堀辰雄のような理念であり、志賀直哉のような妄想であった。
しかし村上は本作で、ごく普通の学生の日常的な性愛を現実的に表現したのだった。そこでは従来、権力論や理念や妄想で語られていた男女の関係が、性や欲望、好き嫌いを中核とするものとして語り直されている。昔からポルノには事欠かなかったが、ここにあるのは読者が普通に行っていることをそのまま現実的に描写した純文学作品なのだ。
政治の季節を嫌悪し、政治的表現の一形態だった性愛を非政治的なものに置き換えた、「政治的なものに対する否定という政治的メッセージを含む小説」が本作だったと言えるのではないかw
死と性を大きな要素としたワタナベの非政治的青春は、「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。あなたの痛みは緑さんとは関係ないものなのよ」というレイコの言葉で一つの帰結を迎えるのである。
日常的・現実的な性という意味では本作は文学作品としては新しいものだったろう。その自覚があるからこそ、村上はここから文学的に再出発を果たしたのではないか。(その後の作品は未読なのであくまで推測ですw)
作品末尾の「僕は今どこにいるのだ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった」という唐突な表白は、政治の季節から自分を解放して性の季節に到達し、これからどのような表現をしていけばいいのかという文学的な当惑を表していた気がする。
3) サブカルチャーにおける性の先取りと本作の映画化の失敗
ところで映画や流行音楽といったサブカルチャーは一足早く、そうした現実の性的関係を描いていた。米国映画では1968年頃までに自主規制が無効化されたから、大胆な性的表現も当たり前のことだし、日本でも警察の猥褻罪関係の規制は徐々に緩んできていた。
性的表現では文学などより映画、音楽といったサブカルチャーのほうが先に進んでいたとするなら、87年時点で村上が文学表現において新しかったとしても、サブカルチャー的にはとくに斬新でも革新的でもなかったはずである。
表題のビートルズ楽曲だってセックス目的で女性についていったら、安物のノルウエー松材の内装を自慢された挙句、はぐらかされて苦笑いしている歌。つまりサブカルチャーは性的コミュニケーションを先取りし、それが日常化していた例証である。
とすると本作を映画化するにあたって性的表現を重視すると、ろくなことになりそうもない。むしろ政治的表現との対比から語りだすべきだった。それは誰にでもわかりそうな話なのだが、いかんせんこの映画はセックスを強調するかのように組み立てられた。
したがって構想の時点で失敗が決まっていたような話であるうえ、女性キャストが菊地に水原では如何ともしがたいだろう。しかも人物もストーリーも原作を単になぞっただけ…二重三重に失敗が決定されていた映画としか言いようがない。映像に素晴らしいものがあるだけに、何とも残念だ。
そういえば映画版『風の歌を聴け』も、日本の港のどんよりとした曇り空のシーンにビーチボーイズ『カリフォルニア・ガールズ』が流れる凄まじいものだったっけな。あのような愚挙を「政治性」と呼ぶのであるw
補足)
上記のレビューで「表題のビートルズ楽曲だってセックス目的で女性についていったら、安物のノルウエー松材の内装を自慢された挙句、はぐらかされて苦笑いしている歌」と書いたが、それと関連する本を最近読んだので、参考までにご紹介しておこう。
小関隆著『イギリス1960年代~ビートルズからサッチャーへ』には次のような記述がある。
「『ノーウェジアン・ウッド』を例にとれば、この曲が描くのは、1960年代に進展した性的モラルの変容を背景とした、どこか虚無的な男女の駆け引きである」
ビートルズ1963年のヒット曲「アイ・ウオント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」は何故、「手を握りしめたい」と歌ったのか。米国に比してイギリス社会はきわめて奥手だったから、ファンの少女たちに受け入れ可能なのはこの程度だったというのである。
しかし、この時期のイギリスは豊かな社会の到来と教会の権威・影響力の低下に伴い、文化革命が進展しつつあり、その一環として性的モラルも急速に変容していく。
ピルの普及により婚前・婚外セックスが広がり、公共放送BBCの教養番組では心理学者が「大切なのは純潔より愛だ」と講演した。国教会の偉い聖職者も「セックスは徹頭徹尾よきもの、神が与えたもの」と明言する時代であった。
『ノーウェジアン・ウッド』のような性的な駆け引きの歌が登場した背景には、このようなスインギング・ロンドンの時代における性的革命があったわけだ。
小関は「性に無知で、性行為に罪悪感を覚えていた若者たちが、性を語り、性の知識を獲得し、人生を充実させるものとして性行為を捉え直していったことは、たしかに革命と呼んでも過言ではない」と説明する。これは村上の小説のレビューに転用してもおかしくない。
『ノーウェジアン・ウッド』の発表は1965年、村上春樹『ノルウェイの森』の舞台となるのはそれからほぼ5年遅れの日本である。
当時、日本国内でビートルズの曲が性的な曲として理解されることはなかったに違いないが、流行歌のメインストリームである演歌は、ビートルズなどより遥かにキワドイ男女の関係を内容としていた。それは宇多田ヒカルの母親の代表曲を持ち出すまでもない。
したがってサブカルチャーが性的コミュニケーションを先取りしていた事実は動かないのだが、それをメインカルチャーである"純文学"化するには、さらに20年近くの時とバブル経済が必要だったのだろう。
村上春樹と「喪失」
ストーリーにいくら忠実でも感動に至らないのだと思います。
2010年。監督は「青いパパイヤの香り」のトラン・アン・ユン(ベトナム人)
村上春樹の「ノルウェーの森」は、
1000万部以上売れたそうです。
村上春樹の作品(エッセイを含む)の魅力は、引用にあると思います。
フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」やサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」
を知ったのは村上春樹の著作からです。
そしてその本を読み、ギャツビーはレッドフォードの映画を観た。
音楽もそう。本に出てくる音楽は探して聴いた。
jazzバー(昼はjazz喫茶)を20歳から30歳まで彼が経営してた話しは有名。
伝説のjazzバーと、言われている。
毎朝、ランチのコロッケを100個以上手作りしていた、キャベツの千切りも山ほど。
音楽・・・彼はjazzのみならずクラシックにも造詣が深く、オペラにも詳しい。
ギリシャやイタリアに転々と暮らしてた頃のエッセイでは、町のオペラハウスに
ふらっと入る記述が多かった。
彼の本には村上春樹の芸術への理解と造詣が深く投影されている。
そこを映像化するのは、まず不可能でしょう。
映画は、確かにこんな粗筋でした。
私は本を読んだ時、直子さんが、なんとも厄介な女性に思えました。
精神を病んだ直子は自分で自分をコントロールできない。
彼女の我儘を「もちろん!!」
と、即答して叶えるワタナベ。
病的なキズキや直子に較べてワタナベは健康すぎる肉体と精神を備えている。
しかし周囲の人間(カジュアリティーズ=犠牲者たち)は、死を選ぶのです。
村上の著作は死の影がいつも慣用句のようにつきまとう。
映画は美しい自然描写・・・緑が目に眩しく。
ワタナベが直子の死から受けたショックから立ち直るべく、彷徨う冬の海辺の岩場。
とても詩的で秀逸です。
この映画の収穫は松山ケンイチの美しさでした。
演技も、ワタナベの捉え方も良かったと思います。
彼の精神の強さ、それは同じくワタナベの強さで、
だからこの映画は観るべき映画になった。
そう思います。
春樹ワールド全開・初心者お断り感
ドライブマイカーを見たこともあってアマゾンプライムで鑑賞。
原作をよく表現されていると思いました。映像、音楽、演技、申し分なかったです。
ただストーリーについては原作や春樹ワールドを知っていることが前提になっている気がしました。
綺麗に引き算されていて、私はよかったんですけど、恐らく原作を知らないと展開に付いていけなくなる人も多かったんじゃないかなと思います。
またこれは原作からそうなのですが、一種の官能小説として受け入れる準備がないと辛いと思います。とにかくセックスのことばかりです。さらに、この主人公は村上作品群の中でも特に最低な部類に入ります。正直、感情移入できる人の方が少数派なのではないかと思っています。
あまりにも評価が低いので他の方のレビューをいくつか見ましたが、やはり上記の点で低くつけている方と、他には菊地凛子さんが原作のイメージと違うことが主要因のようでした。直子役としては確かにかなり違和感がありました。原作で語られるような「もろさ」が伝わってこなかったからかもしれません。今(2022)でしたら有村架純さんがベストマッチな気がします。
ただ作品としては、本当によくできたと思います。
原作のイメージが強すぎるためにファンから嫌がられ、原作が春樹ワールド全開だから非ファン層から嫌がられる、不遇の作品だと思いました。そもそもこの原作を選んだ時点で、監督もその覚悟の上だったのかもしれませんが。
無感情な台詞回しが好き
原作を読んだのはいつだったか。
めちゃくちゃ騒がれてて、流行りに飛びつくように読んだ。
この映画を観るまで、内容を忘れてしまってた位なので、原作と比べるのは無理ですが、見終わって率直に好きだなと思った。
松山ケンイチの演じるワタナベは、無感情な台詞回しが、止まった時間を生きている姿を上手く表現してて良かった。
逆に、常に感情的な直子の表現も、苦しみが伝わった。
ワタナベを筆頭に、感情をのせない台詞回しや演技が、ワタナベの見る非現実的な世界を感じさせてくれるように思った。
性的表現の直球が何を意味するのかわからない。
『映画レビュー』のクラスを教えているが、学習者のリクエストがこの映画である。私は村上春樹の作品に興味がなく、『海辺のカフカ』だけ読んで、それ以上は紐解かなかった。しかし、日本語の教師なので、学習者が決めた本、青豆がどうしたとかいうのやらを一緒に読んで学習者の読解を助けたような気がする。学習者には村上春樹ファンが多いようだ。ある生徒は現在早稲田大学院文学部で勉強していて、高校の時から作家になると言っていた。彼も、ハルキに夢中だった。頭の古い
私にとって、彼の表現はつまらなく感じだ。個人的な感想だが、『もちろん』の多発が例だが、英語の直訳のように思う。文章表現の仕方が、上級だが、日本語学習者の作文のような気がした。あくまで、私感であるから、ご理解を。 それに比べると、三島の『金閣寺』などは『これが純文学!』だと叫びたくなるように表現力が豊かだ。
この映画も、学習者からの要望で見てみた。討論に使うので、よく理解しておきたかった。主人公ワタナベ ( 松山ケンイチ)がたとえば、全学連に入っていて、学生運動に力を入れていて、思春期で異性に芽生えているなら、もっとワタナベに寄り添って考えられるのにと思った。それに、彼の読んでいる文学が、当時流行の作家、高橋 和巳ならもっと感情移入できた。私はどれも満足に読んでいないが、『悲の器』『我が心は石にあらず』『邪宗門』などは当時全共闘に属していない人でも読み漁っていたのを知っている。もちろん、大江健三郎の『万延元年のフットボール』も。 しかし、ワタナベの読んでいる本はなんだか見当もつかない。ワタナベの先輩、永沢 (玉山鉄二)のワタナベの読んでいる書物に対する批判だけじゃどんな本を読んでいるかヒントにもならなかった。
それに、行間を読ませるような短い会話で、こういう作品を理解するのは私の不得意なところだ。 会話が極端に短い。でも、登場人物は意志の疎通ができているようで会話がスムーズに運んでいるようだが、私にとってみると、もっと自分の気持ちを会話にしてくれたら、勘繰らなくてもすむのになあと思った。苦手なタイプの映画で、個人的にイラン映画、トルコ映画のように字幕が長いのに好感が持てる。しかし、ワタナベ の静かに話す口調はこの映画の圧巻で、社会で起きていることには興味が持てず、自分の心の置き場もないような性格が滲み出ていると感じた。何を求めて生きているんだよとか、これからどうしたいんだよと声をかけたくなるような青年にぴったりの口調だ。ポジティブに考えれば、只今、人生模索中といえよう。
もういちどいうが、これは日本映画だが、『英語を直訳した』ような表現を使っているのがギクシャクした。だから、若者の会話なのに、私のとってみると、うまく流れていかないのを感じた。私は団塊の世代の一歩前だから、1967年の時代は現実味がある。私も読書の虫、特に純文学の虫。それに、中核派によって、講義がよく阻止されたのを覚えているし、ワタナベのように、アルバイトに勤しんでいた。
最後に、性的表現の直球が何を意味するのかわからなかった。当時、こういう直球が若者の間で広範囲に使われていたのだろうか?
この映画は私が話し合うトピックを考えるのではなく、この映画を選んだ学習者に考えさせよう。その方が自律性のある授業になるし。
ハルキストでは無いんです。
ということを前置きして。ドライブマイカーを観て思い出したので。
村上春樹さんは恐ろしい話や実際の事件から着想を得た話でもこれでもかという程、淡々と描く方だと思っています。なんなら、ファンタジーなのかな?と、思うくらいです。まぁ、ファンタジーなんですよね。
なのに読んでると泣けてきたり笑えたり、琴線にことごとく触れるという、文学表現におけるある種の天才だなぁーと思っていますが、必ずしも全ての作品が好きなわけでも無く、すっかり忘れ去っているものもあります。
しかし、これに関しては、かなり好きな方で、この空間を切り取った描き方がクセになる作品だと思います。ただし、行間を好きなように読め、想像できる作品ほど映像化が難しいものもなく。
期待していなかったのですが、監督は頑張った!と、思います。わかりづらい、行間だけを描いた様な作品をわからない感じで作ったという事は、ある意味原作っぽいのかなぁと(笑)
まぁ、どんなに人気でも映像化するには向き不向きはあるのかなぁと思います。
ということで、ドライブマイカーは成功してます!短編だったのが良かったのでしょうね。
評判ほど悪い出来ではありません。
そもそも原作自体大した小説ではないと言ってしまうと身も蓋もないけれども。
監督は頑張っていい作品にできてると思いますよ。
僕はこの原作を読んで、なんかノスタルジーなのかな?って思ったんですよね。
全共闘世代のノスタルジー?
でもそれって私には全く響かなかった。
大した小説じゃないというと語弊があるね。
"読む人を選ぶ小説"と言えばいいかな?
あんまり一般化するような物語ではないように感じたんですよ。
正直一般化するなら初期三部作の方が遥かにそんな感じする。まああれもクセがあるけども。
そしてこの映画である。
水原希子の演技が素晴らしいですね!
緑さんを力演しております。
あの飄々とした感じ、なかなかこれを出せる人はいないですよ。色っぽい。えっちなこと言ってもいやらしくない。いや、いやらしいんだけど嫌じゃない。あんなに好き好き言ってたのに次の日にはいなくなってそうなこの感じ(笑)
基本主人公の男性のナルシスティックで団塊ノスタルジーな物語なので、そこはもう置いておこう。水原希子素晴らしい。それだけで3.5!(笑)
原作との差異を痛感してしまう
映画と小説が異なる作品は多い。だがこれは、原作に忠実に作ったけれど、一致していない部分があるように見える。だからこそ疑問点がいくつか残るものとなった。女性陣の雰囲気と、ラストシーンが顕著だ。
まず直子。原作に描かれていた、少女のようなか細さや繊細さが薄かった。吠えるように泣く姿は、私の思い描く直子と異なっていた。だがそれによって、原作でいまいち掴めなかった、彼女が「自らが心底愛していた男性とは交われなかったのに、その親友との行為にとてつもない快感を覚えたこと」苦しんでいたと分かった。その点に関しては良かった。
続いてミドリ。彼女の奥底に潜む闇と、それを繕おうとする強さコントラストこそが彼女の魅力であると私は思っている。だが、この作品では彼女が最初から謎めいた繊細な少女に見えてしまう。水原希子が細くて色白なのも相まってだろうか。「幸せになりたいの」から「抱き締めて」の下りにはミドリらしさを感じられたが。
そしてラスト。原作では直子の死を悼みつつ、導き合うように、不思議に、レイコさんとワタナベが一夜を共にする。原作では、あの何とも形容しがたい雰囲気に魅了された。だが映画ではまるで、レイコさんがワタナベに自らの女性性を覚まさせて欲しいと懇願するように見えた。ただの性行為のように見えたのだ。
ワタナベがミドリに鳴らす電話の下りもいまいち。原作では、時系列がいつなのか、ワタナベが本当に何処にいるのか、全く分からない状態であった。その謎について様々な論文や解説サイトが生まれているのも事実。ただ映画だと、否、映像と音声で伝えられるからこそ、その謎が少し明らかになってしまうのが残念。個人的にはワタナベが数十年後に電話を掛けるのかと考えていたので何とも。
酷評をしているが、この作品で良かった点もある。ワタナベの演技だ。あれはもう松山ケンイチではない。ワタナベトオルであり、若かりし頃の村上春樹だ。そう思わせてくれる彼の演技に天晴れ。
そして音楽。原作にも映画にもマッチする音楽に酔いしれた。映画のサウンドトラックを購入したのは初めてだ。
登場人物それぞれの悲しみ、苦しみ、それを乗り越えて、強くも弱くも生きること。これは映画にも原作にも通ずることである。肝に銘じて生きていきたい。
映像美&やおい系好きにはたまらないのかもしれないけど・・・
前提として映画といえば、スカッとするものか、後を引くものが好みです。
海辺のカフカ以降は読んでいませんが、村上春樹ってなんとなくヤオイ系(ボーイズラブではない、山なし落ちなし意味なし)を巧妙に使って雰囲気で読者(=ハルキスト)を酔わせるのに長けている大家じゃないですか。話の運びの面白さという点からは離れているため、商業的な映画にすること自体がある種、無謀のような気がします。
熱烈なハルキストではない自分からしても「ここは違うなあ」という点が(特にレイコさん。逆に一番マッチしていたのはハツミさん)出てきて、終始没入できない感じが否めない。その点から言うと、おそらく監督も熱烈なハルキストであり、「私の解釈はこうだけどなんか文句ある?」みたいな自分を突き通したエゴの強さに星2.5です。
愛すること、想像すること
人が人に好奇心を抱くこと、好きになること、愛することは、様々な感情を呼び起こすんだと想いました。
色んなことをその人に対して想い、悩み、葛藤する。
決して、人を愛することは幸せだけをもたらすものではないと感じます。
色んな自らの想像力を働かせ、人を想うことの大切さを問うてるのだと想いました。
懐かしさか
ハルキストではないが、村上春樹を読み漁った時期がある
もちろん、このノルウェーの森も
当時、ノルウェーの森を読んだ、ということが1つのステイタスだったのでは
本当にこの本の良さを分からずして、あの赤と緑の本を持つことに憧れていたような、、
で、この映画
多少なりとも本を読んだ時に感じた衝撃をまた思い出すのか、、という期待虚しく、こんなだっけ?という残念感がハンパない
いい役者が出てるし、と期待もしたんだが
残念
文学的な匂いのする秀作
村上春樹さんの小説の雰囲気がすごくでていて文学的な匂いのする映画です。
美しい映像とセリフのひとつひとつと役者の方々の演技も村上春樹さんの世界観をとても大切にされていて文学的に徹しているように思います。
ベストセラー小説の映像化として成功しているのではないでしょうか。
自分は好きです。
一村上春樹ファンから言わせてもらうと、この映画は村上春樹の生と性をかなり上手く表現していると感じた。レビューを書いてる人の中ではただのエロ中心の官能小説と思われてるかもしれないのはとても残念だ。
訳ありな3人の三角関係は見応えがあった。
キャスティングもなかなか良く、特に水原希子なんかはぴったりだった。
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