「ポータブルDVDによる車内鑑賞レビュー」ハート・ロッカー マーク・レスターさんの映画レビュー(感想・評価)
ポータブルDVDによる車内鑑賞レビュー
今作は、冒頭に掲げた言葉、 「戦争は麻薬である」 を
セミマクロな “ヴィジュアル・インパクト” や
おぞましい “ストーリー・インパクト” を駆使して
多重的に訴えてきました。
そして、苛立ちを覚えた
「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く 」 ことや
ヌルイ と感じてしまった展開 こそが
【 ( 「戦争は麻薬である」 ことを訴求する ) 今作自体が、
観る者のモラルを壊していく 劇薬 】
であったことを、
深く、 にぶく、 訴えてきたのです。
このように、戦争の異常さを 「体感的」 に鑑賞者の精神に植込むという側面においては、
比類のない映像作品だった。
と、評価を致します。
映画史における 戦争モノ をステロタイプに言ってしまうと
■ 第二次世界大戦は、
“華やかな勝利” に沸き立って
「史上最大の作戦」 「ナバロンの要塞」 「バルジ大作戦」 などの、戦争スペクタクル というジャンルを創出。 愛国心を煽って、高揚感をもたらしました。
( しかし、 1953年 の段階で 第2次世界大戦の戦勝国でありながら、
軍隊内のモラル崩壊を訴求してきた 「地上より永遠に」 という先駆的な
作品があったことを追記しておきます。 )
■ ベトナム戦争は
“泥沼の末の撤退” の汚辱を受けて
「ディアハンター」 や 「地獄の黙示録」 「プラトーン」 等のビッグネームによって
阿鼻叫喚の中での “精神崩壊” が盛んに訴求されました。
■ この流れを汲んで今作が捉えた、イラク戦争映画というものは
“戦争後の、自爆をも視野に入れたテロ攻撃”
を受けての
“自我の変質” や “性格の急変”
という
「 人格変容 」
が訴求された。
と受け取ったのです。
ここには、第2次世界大戦における輝かしき “勝利の興奮” の 華々しさ や、
ベトナム戦争における エキセントリックな “精神崩壊” という毒々しさもありません。
直接的な戦いが比較的短期間に終結。 しかし、その後の
“自爆をも視野に入れたテロ攻撃”
に晒された結果の、
“自我の変質” や “性格の急変”
という
地味な、
「 人格変容 」
に見舞われただけ
だったのです。
しかし、今作において一番興味深く感じたのは、 この
「 人格変容 」 は
“映画の中の人間” のみならず、それを見ている
“映画の外の人間” をも、
蝕んでいったことだったのです。
今作はしょっぱなから、「地獄の黙示録」 における “ワルキューレのヘリコプター攻撃” のシーンが展開されていきました。
所謂、
“ヴィジュアル的訴求点” として、
予告編で多用されるシーンなのですが、
今作はその “ヴィジュアル的訴求点” を
開始早々に
使い果たしてしまったのです。
通常であれば、このようなマーケティング的に重要なアイキャッチは、
練りに練って、中盤以降に登場させてくるものなのですが 、
開始早々に
気前良く放出してしまったところに、
まず、 ボクは興味を持ったのです。
“ヴィジュアル的訴求点” を使い果たしてしまい、今後、この場面を越えるモノ を提供することができるのだろうか? それとも、 この場面を越えるモノ を用意することが出来ずに、
寂しいクライマックスを迎えてしまうのか?
そんなところを注目していきたい、
と思ったのです。
しかし、今作の “ヴィジュアル的訴求点” そのものは、大変素晴らしい出来となっていました。
町に仕掛けられた爆弾が爆発して生じる 強い衝撃 を
セミマクロ的な視角において
スローモーションで表現してきたのです。
【 地面の小さな砂利が強力な振動によって、10cmほどジャンプをし、
道端に打ち捨てられた自動車の残骸に付着していた錆が、
振動によって空気中に拡散していった 】
のです。
文章に書くと、本当にこれが “ヴィジュアル訴求点” なの?
と思われるかもしれませんが、この一連のカットこそが、予告編に多用され、
そして、ボクに大きな映画的興奮をもたらしたシークエンスに違いなかったのです。
決定的瞬間をスローモーションで訴求する演出と言えば、往年の巨匠、サム・ペキンパー監督を思い出す方もいるでしょう。 彼の表現と比べながら、今作の特徴点を説明してみたいと思います。
往年の名監督、サム・ペキンパーによる作品は、暴力や破壊の瞬間をまっ正面からスローモーションで捉え、 今までの状態から 崩れて変容・変質していく様に、
ある種の ダイナミズム や 美しさ
を感じとれる作風でした。
一方の今作は、同様に ダイナミズム や 美しさ を感じとれるカットはありますが、
ペキンパー流スローモーション術とは、
だいぶ、趣きを異にしていたのです。
サム・ペキンパーの興味の対象は 力 を加えられたことによって変容していく、
“力の作用点”
である。
と理解しているのですが、
今作における キャサリン・ビグロー監督の目線はそれとは違っていたのです。
彼女の興味点は、
“力の攻撃目標”
ではなく、
近くに居たというだけで、その力を被り、変容・変質してしまう
“傍観者への影響”
だったのです。
( この時点で気軽に “傍観者への影響” という言葉を使ったのですが、
後ほど、この言葉の本当の意味を知ることになるのです。 )
“傍観者への影響”
それが
【 地面の砂利が “力の影響” によって10cmも飛び上がり、
自動車の残骸の錆が “力の影響” によって空中に浮遊するさま 】
であったのです。
そして、往年の巨匠との表現比較において、
被写体との撮影距離 や
被写体のスケール感 が
全く違うことも、特筆するべきことだと感じたのです。
今作は、
セミマクロ的な、
視線を狭く限定した画角の中で、
人を殺傷してしまうほどの大きな
爆発の威力
を語ってきたのです。
砂利の一粒、ましてや錆の粒子に目を向けると、極小なマクロ域において、とてつもなく大きな威力を語ってくるところに、サム・ペキンパーの時代とは違う、
現代の表現が
ここにある。
と感じたのです。
きっと 肉食系サム・ペキンパー監督がこの場面の演出をするとしたのなら、爆発の威力で飛ばされる軍曹をアングルを違えて、何度もスローモーションで映し出してきたことでしょう。
制限文字数では語り切れず。完成版はこちら
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