「主人公はどうしたかったのか?神様の正体と宗教の意義を含めて考えてみました。」シークレット・サンシャイン ウシダトモユキさんの映画レビュー(感想・評価)
主人公はどうしたかったのか?神様の正体と宗教の意義を含めて考えてみました。
主人公のチョン・ドヨンの演技がすごかったとか、キム社長役のソン・ガンホがユル・イイ奴で良かったとか、一本の映画としてイイ映画だったと思います。それは間違いないですね。
でもさらに、「神様ってなんだ」とか「宗教ってなんだ」とか、「赦しってなんだ」っていう命題をグリグリと突きつけられる作品で、考え始めたらえんえん考えちゃうタイプの映画でした。
えんえん考えて、とりあえず至った解釈は、
「神様は直接的には助けてくれない」という真理を主人公は誤解して、アテが外れてイジケていたけど、実は主人公が気付いてないところでちゃんと救われていたというお話です。
主人公が誘拐殺人事件で我が子を失って、心のダメージを負いました。どれ程のものか想像すると、子を持つ親としては胸が痛いですが、仮にその損失を100とします。
損失100を復讐100で直接的に回収することは、犯人逮捕によって不可能になりました。
でも損失100をひとりの個人が抱えるには、あまりにキツイようです。
損失100は、心の中では怒り100になったり悲しみ100になったり、悔恨100になったりと暴れ回ります。このままでは心が壊れてしまうので、いったん損失100を「債権譲渡」みたいなカタチで宗教に委ねることにします。
宗教に委ねた100の空白は、「神の愛」とか「救済」で補填されることになりました。でも主人公が思っていたよりもずっとゆっくり、少しずつです。
待ちきれない主人公は、「犯人を許すという善行」によって、その100を一気に取り戻そうとしました。犯人が反省していれば「犯人の懺悔や後悔100」を、犯人が反省していなければ「犯人の囚われの苦しみ100」を目の当たりにすることで溜飲を下げることができたでしょう。どちらにしてもそれを“主人公が”許すということで、優越感100なのか、自己充足100なのか、なんらかのカタチで損失100を回収できると、漠然なりとも期待したのではないでしょうか。
ところが刑務所の面会の場面。あの展開はビックリしましたね。そこをヤマ場にして映画を終わってもいいんじゃないかと思いました。
なんと犯人は、すでに“神様が”許していたのです。「逮捕されてから入信して神に許しを乞ううちに、自分は神に許されたのです」としゃあしゃあと言いやがるわけです。
今日“私が”なんらかのカタチで回収するはずだった100を、こともあろうに“犯人が”「神の許し100」というカタチで手に入れてるってことです。
主人公にしてみれば、「私が預けた債権を神様が勝手にチャラにしやがった。裏切られた!」って気持ちになりますね。そうすると、主人公が回収し損なった債権100の取り立て先は、犯人から神様に交替するわけです。
神様から何を取り立てるか。
主人公のとった行動は、例えば「神の御前で」CDを万引きしてやる!とか、
宗教講演のBGMを、万引きしたCDにすり替えて講演を妨害してやる!とか、
聖人を気取った信者を誘惑して、姦淫の罪を犯させてやる!とか、
自分に純粋に尽くしてくれるキム社長の愛を、下世話な性欲で汚してやる!とか、
ついには自傷行為してやる(死んでやる?)!とかでしたね。
主人公はそういう行動によって、神の権威の失墜100を意図したのでしょうか?自分を裏切った神を逆に100裏切り返してバランスを取ろうとしたのでしょうか?
たぶんそうじゃないですよね。
こういう行動って「自分を捨てた男への当て付け」であったり、「自分を愛してくれなかった親への当てこすり」によくあるパターンじゃないですか。
つまりスネて甘えてるってことです。「こんな私を救ってみせてよ!」ってことなんですけど、それらの行動はどれもこれも途中で失敗します。
万引きしても店先で捕まるし、宗教講演は続いていくし、誘惑は未遂で終わるし、キム社長は純愛を貫くし、自分は病院から退院してきちゃうわけです。
退院ついでに美容院に寄れば、そこの美容師は犯人の娘で、その娘は、主人公が罰を与えたわけでもないのに、ちゃっかり神様から試練を与えられてそれを乗り越えつつあったりします。
捉えようによっては、何から何まで主人公の思うようにはなりませんでしたが、
それこそが「神の愛」であり「救済」であったことに主人公は気づきません。
主人公はさんざん神様に毒吐きますが、結果的には報復殺人者にならなかったし、(神を恨むことで)人を恨まずに済んだし、自分を汚したり殺したりせずに済みました。神様の仕事としてはグッジョブな部類に入る方のお話だったと思います。
神様は実体を持たないので、人を直接的に救うことはできません。実体がないのを擬人化したり、偶像化したりするので神様や宗教の話は往々にしてややこしくなってしまいます。
じゃあ神様とははなんだって話は、この映画でいうところではキム社長であり、店のインテリアをアドバイス通りに変えたおばさんです。
現実社会に存在する神様は、ピカピカの法衣を着ているわけでも、超能力者的なキャラクターを備えているわけでもなく、そのへんで暮らしにまみれて何気に支えてくれるのです。
世界全体を余すこと無く照らしてくれる天照大御神なんてのは、突き詰めていけば単なる「太陽の擬人化」です。太陽を科学的に「惑星」として認識するのであれば、天照大御神という神様は必要ありません。
でも自分の人生で足元がおぼつかない時、そこをピンポイントに照らしてくれる誰かがいるならば、その人をこそ神様として有難がればいいし、誰かが困ったときにその足元を照らしてあげられるなら、その人は誰かにとっての神様になるわけです。
「じゃあ、困ったときはお互い様ってことで、助け合ったほうが人類全体としては生きやすいよね。」っていう知恵とか仕組みを「宗教」って呼ぶんだと思うんです。
美容院には行き損なった。自分で髪を切るのはやりにくい。でも鏡をいい角度で持っててくれる人がいる。その程度の、ちょっとした暖かい「日差し」が、神様の正体ですって話だったんじゃないかなと思いました。