「これは、宗教を信仰している人にこそ、観て欲しい映画なのではないだろうか・・・。」シークレット・サンシャイン ate2さんの映画レビュー(感想・評価)
これは、宗教を信仰している人にこそ、観て欲しい映画なのではないだろうか・・・。
これは、宗教を信仰している人にこそ、見てほしい映画ではないだろうか?
最愛の息子が誘拐され、無残に殺された。それでも、この主人公は涙一つ、流すことはできない。
それは、亡き夫が浮気の果てに死んでしまっても、決して認めず、自分は愛されていた、不幸な身などであるはずがない。だからそんな夫の遺志に従って、彼の故郷で暮らすなら、より幸せになれるに違いない。そう思いこんでいた彼女にとって、仕方のないことだった。
韓国の多くの人たちは、生き辛い人生を生きている。だから夢のように美しく、どんな苦難も乗り越える切実な愛を描くドラマや映画に夢中になる。
だから、この主人公は、韓国では特別な人ではないのだろう。
人間は、どんなに強く願っても、幻想で満たされることはできない。しかし彼女は現実で涙を流すことはなくても、幻想じみた宗教の教導の場では、激しい嗚咽を叫ぶことが出来るのだ。
彼女はたちまち、「神様との恋愛」に夢中になり、自分を幸福だと思いこむ。しかし夫の裏切りとは違い、子供を失った孤独で凄惨な現実から解放されることは、決してできない。
子供を殺した犯人の娘は、どこかそんな主人公に似ている。逃れられない理不尽な苦痛にさいなまれて生きている。そんな姿を垣間見た彼女は決意する。犯人を自分が許すことができれば、この苦痛から逃れることが出来るのではないかと。
しかし犯人は、自分が許さなくとも、信仰によって既に許され、穏やかな日常を生きていた。
自分だけのものだと思っていた幻想が、他者のものでもあったと知ったときの憤り。信仰など、神の愛など嘘だと叫び続けたその果てに待っていたのは、生きたいと思う自分の人生も嘘だという当然の結論だった。しかし幻想に慣れた彼女がそんな苦痛を受け入れられるはずもない。
助けを求め生き延びた彼女。やがて精神病院から退院する日を迎える。
そんな彼女にずっと振り回され続けてきたこの『蜜陽』という町に住む男の車には十字架がかけられている。男は言う、「最初は彼女の為にと通っていたけれど、今じゃ教会に行かないとなんだか寂しいんですよ」
相変わらず男にそっけなく、わがままに美容院に行きたいと言う彼女。そこで待っていたのは、犯人の娘。学校もやめ、少年院で覚えた理髪の腕一つで社会に受け入れられて生きていた。
よりによって退院の日に、これを見せられる。天を睨むしかない主人公。
町にもどれば、彼女の善意の助言を変わり者の世迷言のようにしか見なかった洋服店の店主が、助言通りにしたら、言う通りだった、ぜひお礼をしたい、と声をかけてくる。
得体のしれない天のまなざしが気に入らず美容院を飛び出した主人公は、仕方なく自宅で髪を切る。追ってきた男は、笑いながら気恥ずかしく鏡を持って、その手伝いをする。
切り取られた髪の毛は、風にあおられ、温かい日差しの中に吹き寄せられていく。
あーぁ、だから嫌なんだよ、宗教って~、笑。月並みに、そう思うだけだろうか?
もし彼女が神様への恋愛を知らなかったなら、どうだったろうか?犯人を許せたろうか?その娘の苦しみに気付けたろうか?自分自身がウソだらけの生き方をしていることに気付けたろうか?彼女に付きまとう男は、彼女の身勝手やわがままに愛想をつかさずにいられただろうか?町の人たちは狂人同然だった彼女に素直に感謝出来ただろうか?
『幻想』というものは、人間にとって単なる絵空事ではない。
本当に美しい心を持っているから、幻想というものは生まれてくる。ただ現実の中で、その美しい心を実らせることができないだけだ。
彼女は曲がりなりにも神を信じている。信じざるを得ないほど、その心が美しいからだとも言える。
だから本当はすべてわかっているのかもしれない。現実に汚された心を、神様は苦労して洗い清め、それでも笑って生きていけるように、心を砕いていてくれるのだと。
そう、思うのと、思わないのとでは、180度、風景が違う。
ラストシーン。薄汚い、ホースと、洗濯板と、空の洗剤と、濡れた赤土。
そんなものに温かく、力強く降り注ぐ日差しに、心を動かされたかどうかで、この映画を観た価値は決まる。
韓国の映画は俗っぽくて、軽薄で汚い。そんな美しくは無い物に、日本人は容易に心を動かされたりはしないかもしれない。だが、ここには誰かを守りたいという、偽りのない愛、そして人間らしい温かいまなざしがあることを、見逃さないでほしい。