「予習をしてからがいい!」アイム・ノット・ゼア jack0001さんの映画レビュー(感想・評価)
予習をしてからがいい!
和洋様々なアーティストに多大な影響を及ぼす偉大なる現役、ボブ・ディラン:Bob Dylan。
早くも彼をモデルにした伝記的映画「アイム・ノット・ゼア:I'm not There」が誕生した。
当人もこの出来栄えに満足し公認としている。
興味深いのは、一人のモデルケースを時代や設定によって6人の俳優に演じさせるという、その前代未聞な発想だ。
何も一人の人物をわざわざ6人で演じる遠回りさが必要か?疑問に思いつつ観始めると、次第にその演出の巧妙さを知る。
リチャード・ギア、クリスチャン・ベイル(この二人、もっともディランとはかけ離れたタイプだ)先日他界してしまった「ブロークバック・マウンテン」のヒース・レジャー(2008年1月22日、マンハッタンの自宅にて薬の併用・過剰摂取による急性薬物中毒による事故死)等の豪華キャストが、各々独自な切り口でディラン節を披露している。
それだけ、ボブ・ディランというアーティストの刻んだ時代の膨大さ、懐の深さは、ポピュラー音楽史の断片そのものに匹敵するのだな・・・と感慨深くなる。
彼らの殆どは、当人を素のまま演じる意識ではなく、ディラン的フィルターを通した別人格を作り上げている。
6人の場面が独立した構図から始まり、それらに付随したノンフィクションと架空の設定が上手くブレンドされ、次第にストーリーが結合されていく。
何とも不思議な居心地になる。
正直に言うならば、この映画を観る前には予備知識を心得ておかないと、ついていけなくなるかもしれない。
単なる娯楽感覚やデートのつもりで、軽く映画鑑賞などでも・・・という発想で劇場に足を運ぶと、期待はずれなまま帰宅することになるだろう。
設定や役柄がバラバラな上、時制を無視したシーンが細かく交差していく描写は、やや混乱を招く。
例えば「プロテスト・フォーク」が何なのか?リチャード・ギアがビリー・ザ・キッド?そもそもビリー・ザ・キッドって誰?オートバイ事故って?・・・etc.
実は、ボブ・ディラン愛聴家にとって基本的な事柄こそが、普通の鑑賞者(つまりディランを知らないごく普通な人という意味)を、最も難解な世界に導く原因になり得るのだ。
なのでここは一つの提案として言っておきたい。
少なくともディラン作品を一度聴いてから観るといい。
DVDや書籍でも何でもいい、現代最も崇高な音楽家への興味を!
そこで初めて相乗効果が出るだろう。
*後から調べるのもいいが、その行為はむしろディランを知っている人間のほうがしっくり来る気がする。
するとその厄介なストーリーの中に、光輝く存在感を放ったひとりの役者に注目できるはず。
ジュードというロックスターを演じたケイト・ブランシェット:Cate Blanchettの見事な扮装ぶりだ。
前作「バベル」では銃弾を受け瀕死な状態を演じた彼女、ここでは何と男役。
音楽性をフォークからロックへ移行する過渡期、彼はブーイングを一身に受ける。
マスコミからの執拗な取材攻勢、往年のフォーク・ファンからの誹謗中傷・・・それでも時代は変わることを身を持って証明し、やがてロックとフォークの重要な部分を繋ぎ合せたラウドなサウンドを確立する。
60年代後半に革新的な行動に打って出た頃のボブ・ディランをモチーフに、若く美しい反逆精神に満ちた演技をスマートに魅せつけてくれる。
この演技、タダものじゃない!
案の定、あらゆる賞モノでのノミネートやら候補に挙がっているようだ。
この怪演振り、彼女が最もリアルなボブ・ディランに近い。
*それに、途中で登場するアレン・ギンズバーグ(アメリカを代表するビート詩人、ディランとの親交の深さは有名)役のデイヴィッド・クロス;David Crossというコメディアン、彼の扮装ぶりも当人っぽく面白かった。
しかし、改めてボブ・ディランの半生の膨大さには驚く。
ミネソタ州の田舎の青年が、才能と再生を繰り返し開花させ、時代や世界と向き合い続ける。
当人は1941年5月24日生まれ、人生の集大成の時期に入った。
この映画を通じて人間の多様性を知った。
思った以上に様々な行動や判断が出来て、計り知れない深さを持っているのが人間だ。
一つのことに執着した凡庸な日々なんて、本当にもったいない話だ。
後悔・・・人生を同窓会の連続にしてはいけない。
僕らが多様性に満ちた有意義な人生を歩む為に、こんな合言葉を唱えよう!
時代は変わる。