劇場公開日 2008年2月9日

「監督のキリスト教に対する描き方には疑問が残ります。」潜水服は蝶の夢を見る 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5監督のキリスト教に対する描き方には疑問が残ります。

2008年2月20日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

脳梗塞で、一切の身体の自由を奪われた主人公の映画のために、当初から動きの少ない作品であることは予想されました。それでもきちんと映画になっている監督の力量に驚きましたね。

一見単館系のフランス映画に見えて、撮影はスピルバーグ作品の撮影監督が努めていたり、なんと主役は当初ジョニー・ディップが演じることになっていたそうです。残念ながら、パイレーツの撮影が多忙で、流れてしまったそうなのです。「ネバーランド」でヒューマンな主人公を好演したジョニデであれば、もっとこの作品に陰影を付けられたことだろうと思い残念に思います。
 まぁ、それくらいバリバリのハリウッド映画でありながら、監督はジャン=ドーの存在感にこだわり、ジャン=ドーの入院したフランスの病院でロケし、ハリウッド映画では珍しくフランス語で語らせることで、まるでドキュメンタリーを見ているかのようなリアルな作品となりました。

 但し主役のマチューの演技もリアルティもなかなかのもので、元気だった頃のジャン=ドーと入院後では、全く別人といえるくらい説得力がありましたね。
 撮影方法もジャン=ドーの唯一動く左目の視野の制約をそのまま描き出し、なんと彼に語りかける人の顔までフレームアウトしてしまう徹底ぶりです。
 右目を閉じる手術のときは、ゴムをレンズにおいて、縫合するところを撮ったそうです。

 ただこの作品はそんな映画技法以上に、テーマがが強烈に語りかけてくる作品でした。 脳梗塞が身近な病気になった現代。もしも自分がジャン=ドーになったらと問いかけずにはいられなくなります。
 原作で彼は、こう語っています。「健康なときは私は生きていなかった。存在しているという意識が低く、極めて表面的でだった。しかし私は再生した時、『蝶の視点』を持ち復活し、自己を認識する存在として生まれ変わった。」
 確かに映画でも「死にたいと」述べていた彼は、明らかに変わっていきます。そして家族の絆や父親としての実感など、今までほったらかしにしてきた大事なことにも気がついていくのでした。
 きっと彼の使命は、人生の目的を多くの人に考えさせることににあったのではないかと思います。五感が満足に機能している間は、刺激に反応しているだけだし、自分欲求を満たすことで頭がいっぱいで、感じている出来事の意味の一つ一つを深く考えていないことが多いはずです。
 視聴覚や嗅覚などを満たすだけの日々は、本当に生きていることなのだろうかという疑問をジャン=ドーは病気になって初めて、気がついたのでした。
 華やかな一流ファション誌の編集長を努めていて、自分が主役であり、思うとおりになった人生、それがずっと続いていくかのように思っていたのに、諸行無常であったのです。
 けれども心の内を見つめれば、そこには無限の可能性が宿っていたのです。ジャン=ドーにはそれが蝶となって羽ばたく如く、魂の自由を感じたのでしょう。

 一編の詩集を見るような作品です。
 淡々と進んでいきますが、終わったあと、観客はみんな哲学者になっていることでしょう。
 ということで、凝った撮影技法や詩を紡ぐようなカット割り構成など斬新な表現方法をとっている本作は、単館系の作品を何本も見ているような通の人に受けるこだわりの一本と言えます。
 ただ一般の映画ファンにも、アクション映画ばかりでなく、たまにはこういう作品で人生とは何だろうと思索に耽るのも悪くないと思いますよ。

●追伸
 不満点を述べるなら、ジャン=ドーの魂の叫びが聞こえなかったということです。彼が希望を見つけるまでの間、画面は回想シーンに飛んで、気がついたら本の執筆が進んでいたのです。もう少し彼の葛藤と克服していく過程が見たかったです。

 また彼の奥さんは信仰深いクリスチャンであったことから、ジャン=ドーをルルドに連れて行こうとします。結局ルルドへ行く前の教会のジーンで、突如回想シーンになって、顛末がよくわかりませんでした。
 ルルドの聖地の回想では、過去に巡礼の行列に並んだシーンしか出さず、むしろルルドの歓楽街での体験を長々と撮っています。あれでは監督は、聖地といってもこんな俗っぽい裏があるよと聖地を貶める表現を敢えてしていると言っても過言ではないでしょう。
 カウンターカルチャー出身の画家も兼ねる監督だけに、宗教による救いに対して抵抗感があるのかもしれません。

 全身麻痺した、ジャン=ドーであれば、神についても考えたことでしょう。また内なる心の世界を斯く見入ることで、様々なインスピレーションにも敏感となり、魂についても思いはせていたに違いないと思うのです。

 けれども監督は、ジャン=ドーに神を信じる気持ちからの懺悔や罪の思いに対する許しなど、一切触れませんでした。そもそも神についてどう思っていたのかについても触れてなかったのですね。
 ジャン=ドーのような人にこそ、魂の完全性や永遠性に触れさせてこそ、大きな感動を呼ぶものだと思います。
 生きているという現象を追いかけているだけでは、やはり潜水服の世界から抜け出せていないなあと思いました。肉眼を超越したところに「蝶の目」はあるものですから。

流山の小地蔵