ツリー・オブ・ライフのレビュー・感想・評価
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まったくぜんぜんさっぱり意味不明でした。
何がしたいのか何が言いたいのか全く分かりません。
CGを駆使して天地創造を描く必要があったんだろうか?
ブラッド・ピットやショーン・ペンの使い方はあれでいいんだろうか?
2時間半という比較的長めの作品ですが台詞が少なく、ただただ無駄な2時間半に感じました。。。。
神の恩寵に生きる者に、不幸は訪れない
映画「ツリー・オブ・ライフ」(テレンス・マリック監督)から。
この作品、きっと賛否両論に違いない。
映画というものをどう捉えるか、によって感じ方が違うのだから。
さて私の場合、数少ない台詞から、気になるフレーズをメモしてみた。
特に、作品冒頭、こんな台詞が続く。
「『生き方には、2通りある』と修道女に教わった。
世俗に生きるか、神の恩寵(おんちょう)に生きるか、どちらか選ばなくては。
神を選ぶ人は、利己心を持たない。軽んじられ、忘れられ、
疎(うと)まれることを受け入れる。侮辱され、傷つくことも。
世俗に生きる人は、利己的。他人に自分を従わせ、威圧的に振る舞う、
自分の意のままに。常に不満の種を見いだす。周りが幸せに輝いていても、
愛情が満ちあふれていても。」
そして「こうも教わった。『神の恩寵に生きる者に、不幸は訪れない』と。」
この辺りに、監督の伝えたいことが詰まっている気がしてならない。
台詞が少なければ少ないほど、気になって仕方がないし。
この映画を観た人の、ヒントになればいいのだが。(汗)
人生の意味を考える作品
この作品に関して,あまり頭を使って観るものではないと思いました。
強いて言うなら感性で観るというか,そういう抽象的かつ哲学的な作品だと思います。
個人的な感想としては,『無知の知』に対する議論が感じられました。
この言葉も解釈について,様々な議論があるかと思うのですが,おそらく,生きているうちに,全てのものを知り,理解することはできない,という所にあるのかと思います。
冒頭で,「世俗に生きるか,神の恩寵にゆだねるか」という話がありますが,これはまさに関連する話なのかな。
世俗に生きるならば,世の中を知り,人間を理解し,その中で特別な存在になることを目指すしかない。未来は予測するものであり,自分の手で開拓するものである。
対して,神の恩寵にゆだねるというのは,世の中で起こること全ては自分の意思でどうすることもできず,未来は予測できないが,必然でもある。だからこそ,その全てを受け止めて生きていく。
あまりうまくはまとめられませんが,そんな感じかと思います。
主人公の両親は,父親が世俗に生きようとし,母親は神の恩寵に生きようとした。
だからといって,どちらが正しい生き方か,それについてこの映画は解答を避けています。
父親は世俗に生きようして一度失敗したが,最終的に成功している。
母親は全てを受け止めながら純真に生き,神の存在を信じたが,神に息子を奪う不幸を与えられる。
どちらが幸せな人生なんでしょうか。分かりませんよね。
自己啓発に熱心な方々は,無知の知というものが自分を向上させるために不可欠なものと考えていると思いますが,おそらく”知らないままでいる”ことの貴重さに気付くことは難しいでしょう。
しかし,自分の身に大きな不幸が訪れたとき,知識のない人はそれを理解できず,また回避することも,気持ちに整理をつけることも難しい。
と,僕自身もよく理解できてはいませんが,自分の考えを書いてみました。
あまりエンターテイメント性もなく,賛否両論の作品であることは間違いありませんが,哲学的なものに興味があるなら,一度観てみてもいいかもしれません。
あまり面白くない
う〜〜ん
よく分かんねー
難しいよね
なんか自然な風景流しすぎって感じ
穏やかな映画かな〜って思ってたら、それ以上に穏やかだった(笑)
ショーンペンとかなにしてるか分かんない
あそこどこなんだろ?なにか天国的な?
人生の……わかんね
ブラピ好きなのになあ
他の人のレビュー見てるとみんな納得してるから怖いなあ(笑)
5.0とかつけてる人って映画通かな?
どう考えても納得できない映画です
2011年宇宙の旅?と生きる意味
何とも不思議な映画で、正直かなり面食らいながら観ていたが、終わってみると、とても映画らしい映画だとも思える。監督がどのような宗教観をもった哲学者なのか知らないが、哲学者にして映画監督であることが、この映画の制作を可能にしたのだ。台詞を少なくし、解釈を観客にゆだねている点や、映像と音楽/音響のみで宇宙や生命進化を描写していくあたりは確かにキューブリックの「2001年宇宙の旅」と似ているところがある。
この映画を観て、こんなふうに感じた。
この宇宙には、創造主が存在する。それは、宇宙が高度に複雑な法則に従って組み立てられ、その中で生命が誕生し進化してきたことからわかる。偶然の積み重ねでは説明できない。
しかし創造主とは、キリスト教が唱えるような、人を救う存在ではなく、また罰する存在でもない。神は与え、奪い、救い、罰するというまるで相反することを人間に対し行っているように見えるが、そうではない。創造主は、もともと人間など遥かに超越していて、人間の存在など、この広大無辺な宇宙ではとるに足りないものなのだ。
そうでなければ、3月の震災で突然あまりにも多くの人々の命が奪われた理由は説明できない。この震災を天罰だと言い放ったどこかの都知事がいるが、天罰を与えられるとすれば、原発で多額の利益を得、原発のおかげで電気を湯水のように使ってきた人々であろう。創造主は無慈悲、というよりは人間に対し無関心なのだ。善人がしばしば悪人よりも不幸な目に合うのも、神が人間の行いなど見てなどいないからなのだ。
父の教えに従い、仕事に成功はしたが「世の中は悪くなる一方だ。人々はどんどん欲深くなる、他人を支配しようとする」とつぶやき、仕事に疲れ家庭も冷え切った長男ジャックが、人生を振り返り、父と母、兄弟のことを想い出す課程で、救いを見いだしたのがラストシーンであろう。救いを求めるのは神ではなく、自分自身であり、家族である、とのメッセージではないかと解釈した。
監督がこの映画で意図したのは、一方的にこれが正しいと主張するのではなく、観客が生きる意味を考え、生きるよりどころを見いだすきっかけを提供したかったのではないかと感じた。様々な解釈が可能な映画だ。小説ではこのようにはいかないであろう。
CGによる映像群は見事で、とくに木星の映像は、鮮烈で印象に残った。
ところで、多くのクラシック音楽が効果的に使用されているのにパンフレットには音楽については全く言及がない。曲の一覧くらいは載せて欲しかった。
監督の哲学講義。
多くの方が指摘しているように、なんかもう、映像がねぇ^^;
あまりに壮大過ぎて、捉えどころを失っている作品。
予告で観る限り、父と子の運命(とはいえよくある話)だけど、
天地創造のごとく、恐竜は出てくるわ、モルダウは流れるわ、
いったいどこへ視点を向ければいいのか憚られるほどの内容。
理解できるかよりも、そういう風に作ってないと思いますねぇ。
というのは、製作を兼任したブラピのインタビューを聞いて。
なんで自分のような小さな製作会社に監督が本作の映画化を
持ち込んできたのか?謎^^;に思っていたが、どうにも万人ウケ
する話ではない。だからこのくらいの規模の会社で丁度よかった、
カンヌでパルムドールが獲れたのはご褒美のようなもの。
父親役も自分以外の俳優に決まっていたのに降板、監督に言われ
代わりに自分が演じたそうだ。
ふむふむ…。もともとT・マリックって有名大学を二つも出ていて、
監督してない時は教授として教鞭もとっている。だから映画製作は
その彼が論ずる哲学論の延長、講義だと思って観てみると、あ~
それでこういう感じなのか~。って納得がいくような感じがした。
彼にしてみれば、自分が論じたいテーマを哲学的な映像にのせて、
壮大で限りない人間界のメッセージ(実は一般家庭の家族のお話)に
転化させたような、う~ん…やっぱり映像作家さんなんですかねぇ。
偉大、壮大、物語はとるに足らない(スイマセン^^;)、みたいな。
実業家として成功した息子が思い出すのは自身の暮らした過去、
横暴で支配的な父と慈悲深い母、そして可愛い弟たち。思春期に
入り、それぞれが父への反抗を胸に成長、成功への期待を背負う
父は仕事に身を投じ、子供達への風当たりは更に強くなっていく。
時を現在にした冒頭、真中の弟が亡くなったという知らせが入る。
幸福だった家族に走る哀しみの連鎖。兄と弟の絆が過去に戻って
さらに延々と描かれる…。生命誕生とか…そんな世界も含めつつ。
思うにこの一家の長である父親、確かに横暴で支配的なんだけど、
こんなん昔の父親は誰でもそうだったけどな。うちの父親もそう。
子供からすればまったく理不尽な取り決めや^^;マナーの崇拝^^;
今じゃ、バカな!?(爆)と思えるくらい子供の頃は親が怖かった。
父親を殺したいほど憎む長男の気持ちもなんとなくわかる~(爆)
それは、珍しいことなんかじゃないのだ。誰もが大人になろうと
して、親の擁護から離れていこうとする段階の、ほんの反抗心の
端くれみたいなもの。それを優しい母親が包み込み、大丈夫だよと
胸に戻すわけだ。そんな行きつ戻りつを繰り返して子供は成長する。
親が憎い。自分がその親に似ているのはもっと憎い。でも、自分が
この人の子供である事実は変えられない。良いところも悪いところも
ぜーんぶこの人を映す鏡が自分。そろそろ認めるしかない。となって、
いつの日にか父子は和解を試みる。…ここはけっこう感動できた。
愚かな父親は自身を反省する。ただ、強くなって欲しかったんだと。
賢い息子は自身を照らし合わせる。僕は、あなたに似ているんだと。
あーこれでいい。と愚かな私は思った。親子なんてこんなものだよ。
完璧じゃないから同じ失敗をする。それを分かち合えるのが家族だ。
思春期真っ只中、異性への好奇心からおかしな行動をとったり、
他人の家を壊してみたり、まったく破壊的な行動のひとつひとつが
逆に懐かしく思い出せるんじゃないだろうか。弟を失った哀しみの
その何倍もの幸せや恩恵を、今までもこれからも、享受できる人生。
エレベーターから逃避した世界で彼が見たものは偶像というよりも
過去が啓示してくれる明るい未来、運命はこう導かれるものなのか、
なんて少しは明るく捉えて前向きに生きてってくれよ!っていう弟の
メッセージだと私は受け取りたいなぁ。
悪い話じゃない。だけど万人ウケはしない。そして意味も分からない。
だけどテーマはスッと立ち上がってくるような不思議な快感を覚えた。
(感想も意味不明になってますね^^;まぁ大樹の如くノビノビと生きよ~)
一番苦手な部類の映画。何がどう苦手なのかは眠くて何も覚えちゃいない
今年観た映画の中で一番アカンかった。
何がオモロいのかサッパリわからない。
厳格な父親(ブラッド・ピット)と優しい母親のいる平凡な一家だったが、次男の死をキッカケに家族の絆が崩壊する。
後に社会人となった長男をショーン・ペンが演じており、幼少期と現代との2つの時代から確執に迫り、ドロドロの骨肉の争いに突入するかと思いきや、家族そっちのけでなぜか宇宙空間へワープ。
ビッグバンによる地球誕生の歴史が延々と続き、我々の頭には“??”がどしゃ降り。
イグアノドンが大地を疾走する件で、さすがにシビレを切らし、
「ブラピ一家はどこ行ったんや?!」
と捜索願を提出したくなった。
家族に焦点が戻っても、頑固で子供達に絶対服従を強いる陰湿なブラピの親父っさんに、イヤイヤ付き合い、成長するに連れて、距離感に疑問を抱く。
その生活がホント〜につまんなそうで、子供達の無表情振りが否応無しに脳髄に染み込んでいく。
家族とは退屈の極みの集合体の象徴であるとすら感じた。
常に宇宙と家族との繰り返しで、次男の死の真相はそっちのけ。
家族のいざこざなぞ所詮、宇宙から観たら土星の輪っかの破片みたいなものって意味かもしれないが、飛躍しすぎにも程がある。
んで、結局、「おお、神よ…」
っと空に祈って、はいオシマイ。
って何じゃそりゃ、そのサゲは!?
物語性は皆無に等しく、家族につきまとう不協和音や苛立ちは、表情や空気で察してくださいっと言い残し、一枚一枚の絵を静かに何千枚を並べていき、ニュアンスで観客個人に理解度を委ねていく。
芸術的と称すれば、聞こえは宜しいが、丸投げやないか?無責任や、基本的な起承転結ぐらい作れと言い捨てちまえば、それまでである。
なぜ産まれてきたのか?
なぜ生きているのか?
生命とは?
自立とは?
僕って何?
親って何?
家族って何?
そして、愛って何?
答え無き議題に粘着質に自問自答し続ける。
ネチネチネチネチネチネチネチネチネチネチと…。
そんなんエヴァンゲリオンの最終回観たら30分で済む。
こんなん批評ちゃうね。
まあ、いいや
最後に短歌を一首
『神に問ふ 愛奪うのも 道なのか 木陰に集ふ 宇宙(そら)をみる距離』
by全竜
すばらしい最高傑作
キリスト教的という評価もあるが、じつは反キリスト教的な要素も多く含まれているのではないか。
正反対のものが、渾然と境界をはっきりしないまま同居する。抽象と具象。自然と人工。慈悲と無慈悲。生と死。
「恐竜のCGがいまいち」と思うのは、「生きている恐竜が実在しない」というわたしたちの知識がそう思わせるのであり、土星や木星、太陽、溶岩、、、などについては、CGの可能性があるとは考えずに見てしまう。
見るものに深く問いかける映画である。
音楽もいい。わたしは、モルダウの出だしのところや、何回か繰り返されるシチリアーナで思わず涙が出てしまいました。
ショーンペンは、こういう少年が大人になったときの役に◎。
評価を満点にしなかったのは、プロモーションの内容が、あまりにも違うため。
ヨブ記でなくてもいいじゃない
いい子でいたいのに、いつまでもいい子でいられない。この映画の主人公も、旧約聖書のヨブも同じである。いや、いい子でいようとしても、とかく「父」は自分のあらを探して、すぐに罰をあたえるのだ。
自分が自分のままでいると、罰せられる。「父」の言いつけを守っていてもやっぱり罰せられる。なぜなんだ!という問いがこの映画のテーマになっている。
この問いは思春期の少年の問いである。「非行」とは、少年の無意識の行動が悪として断ぜられることだ。ご近所の窓ガラスを礫で割るのは少年たちの狂騒の結果だし、お隣の女性の下着を盗む行為は悪ではなく恥辱として認識される。それは本人にとっては、生きる必然のさなかにある行いである。もし悪いことだと自覚してやったら、その作為はもう「非行」ではなく犯罪だからだ。だが、同時にその行いは、少年のイノセンスとは無関係に、大人のまなざしや世の掟から、悪とも見なされうる。
少年の無言の問いは、「僕のどこが悪い?」にある。
それはヨブが神に向かって発した問いと同じだ。
映画の冒頭に引用された旧約聖書ヨブ記の言葉は、そのときの神の答えである。
「わたしが大地を据えたとき、おまえがどこにいたか答えてみよ。」
おまえは善悪を判断する主体であると思いこんでいるかもしれないが、わたしが天地を創造したときには影も形もなかったんだぞ、という意味だ。宇宙や自然の大きな秩序の一部に過ぎない人間が、自ら「いい子」かどうか、罪をおかしたかどうか、罰せられるべきかどうか、判断するなんてことはできないという意味だ。
「いい子」だからほめられたり、「わるい子」だから罰せらるわけではない。それはほめられるために「いい子」を演じたり、罰をおそれて「わるい子」を忌避したりする作為を戒める言葉でもある。純粋に神への信仰とは「いい子」を演じて、何かを得ようとする作為から解放された無償性にあるのだと言う意味である。
映画はこのヨブ記を下敷きに構想されている。この信仰の無償性を説いた旧約聖書の一章を計算に入れておかないと、理解不能の映画になるかもしれない。
で、感想をいえば、つまらない。主人公の回想シーンに登場する少年は存在感があってとてもいい。見事なキャスティングだと思う。思春期の少年がぐれる話だと思えばなかなかよくできている。しかし、大方の感想にあるように宇宙創生から現代に至る長丁場の映像は無駄に長い。キャメラワークも同じ。台詞の少ない映画なのに、映像の「おしゃべり」がうるさいのだ。
なぜこんな映像が必要だったのか?宇宙創生以来はじめて、自らに善とはなにかを問う人間という存在が現れる。宇宙の大きさに比べて塵芥ほどの存在が、不遜にも神の秩序を問い詰めるのである。その人間たち、つまりこの映画の家族たちが地球上にドラマを演じるまでの天文学的なひろがりと時間とを映像化した意図はわかる。わかるけれど、気持ちはちっともついていかない。
同様に、成長した主人公が天上的な幻想の中に踏み込んでいくシーンがラストに出てくるが、気持ちは高ぶらない。この映画のクライマックスなのに、よくできたカレンダーのグラフィックを見せられているようで、視覚的な美しさを除外すれば、ほとんど空っぽの映像である。そこはおそらく、死後の世界であり、天上的な場所であり、家族が和解していく場所でもあり、その和解を静かに受け入れようとする主人公の心象でもある。だがこの静けさはうわべのものだ。映像を作り出した技術者たちがその粋をこらして、舌なめずりしながら、どんなもんだいと作為している悪趣味の映像である。
ヨブ記のテーマはたしかに普遍的なものだ。しかしその物語をトレースしたところで、人の気持ちは動かない。ヨブ記を知らなくても、ドストエフスキーのカラマゾフは読める。
ならばなぜ、この映画はヨブ記を知らないアジアの東の果ての人たちを感動させないのか。
理由は簡単だ。物語はトレースしてみたが、テーマの普遍性には届かなかったということだ。「ヨブ記を扱いました」といえば、それだけでヨーロッパやアメリカでは受ける。日本で「戦艦大和の最期」をテーマにすればどんな陳腐な映画でも興行収入にめどが立つのと同じである。
結論。この映画は西欧人しかわからない(?)ローカル映画である。
個人的感想ですが…
大人になった長男(ショーンペン)は死んでる、または臨終寸前ではないのでしょうか?
時々、心電図のような音が聞こえますし、一緒に暮らしていると思われる女性は正装して花束を用意、あれは見舞いか墓に供える花束かな…
なんかシックスセンスと同じように思いました。
映画?
この映画はぶっ飛んでる。
タランティーノ的なぶっ飛び方とは全然違うが通じるものがある。
映画という定義が正しいのか?
初めてのジャンルなので評価は出来ない。
正直、字幕を見ないでも全然いける。
ブラッド・ピットの子供役が
ブラッド・ピットの実の子かと思うぐらいに似てた。
ショーン・ペンは何でこの映画に出演したんだろ・・・
地球の神秘、宇宙の神秘、生命の神秘を表現する為か、
ナショナルジオグラフィック的な映像(実写とCG)が永遠と流れる。
これは映画か?
芸術作品として観れば良いのか?
カンヌ受賞作品として期待して観にいくと、肩透かしを食らうかな。
限定できないテーマ
神様はなぜこの地球を創り、生命を創り、私達を出会わせ、子供を産ませたのか。そして、なぜ交通事故で死んでしまう"運命"を何億人といる人間の中から、わざわざ私の子供に与えたのか。がテーマなのか。
父は子供に自分のような人間にしたくない。事業を興せるくらい力強い人間になってほしい。だからきついしつけをさせてきた。それに不満を感じた長男はその不満をまるで父親のような振る舞いで、弟に強くあたる。それに気付いた長男は嫌いだった父親と似ていることがわかり、父親に共感し絆を深めていく。家族には色々な壁があり、またその壁は家族を結びつける。がテーマなのか。
圧倒される神様なる映像は美しく、また威圧するような効果で終始鳥肌が立っていた。
終わらない思考のスパイラル。
美しいモルダウの調べにのせて語られる国村隼の重厚なナレーション。
「家族とは?」「人間とは?」「生命とは?」多くの人はこのCMに大きな期待を抱いて映画館に赴く。
光と影。広角レンズとステディカム、アオリ撮影を多用して紡ぎだされる誰もが知りながら辿り着けない壮大な叙事詩。
断片的な映像。難解なショーンペンの芝居。イメージ先行の回想シーン。
親は誰でも、自分に出来なかったことを子に託し、子はまた親となり、その
子へと繋いで行くのだろうか。それは子にとって時に重圧になりトラウマとして澱のように残る。
劇中、説明的なセリフやシーンは殆ど無い。それ故何が何を指し、表しているのかが理解できない。この映画はストーリーを追ったり、冒頭から結末に向かう類の映画では無いことに突然のエンドロールで気づく。
一人の男を通して描かれた物語は、終焉に向かう人類の未来を憂う哀歌なのか、それとも繋いで来た生命に向けての賛歌なのか。
一点、CGの恐竜はいただけない。抽象的に描く心象風景の中に、具象的表現を持ち込むべきでないからだ。ただ、この難解な映画、面白さは皆無だが、好きか嫌いかと聞かれれば「好きだ」と答えるだろう。
あなたの人生の木は今どんな季節を迎えていますか?
『ツリーオブライフ』それは、みんなが人生を一度は仰ぎ見る、大切な瞬間なのかもしれない。
最近のハリウッド映画は、映像処理技術の進歩が目覚ましく、ミクロからマクロまで、殆んど
総て人間が思いつくイメージの世界を容易く再現してくれることから、私たち映画ファンは
様々な映像表現を堪能出来る、素晴らしくラッキーな環境に今やある。が、しかしその
一方で、テクニカルな面が先行してしまい、返って内容のチープな結末等に落胆してしまう
事も時にはあるものだ。そう言った昨今の映画界の中で、『ツリーオブライフ』それは目で
耳で、そして、心で感じられるように、宇宙の神秘と人間の神秘、そして人間の生の意味と
言う人類永遠の究極テーマを余すところ無く一機に観客の目覚めへとトリップさせてしまう、
映像の力を備えていた。
これは言うなれば、『観客と映画との対話』とも言えるだろう。
そして更に、私たち総ての人間には「人生の木」があり、その人生と言う木がどう育ち今どの
ような環境にあろうとも、その根は確かにこの大いなる愛の大地にしっかりと守られ育まれ
ていると言う事を改めて思い出させてくれるのだ。映画を観終わった後、自分に、両親や先祖、
そればかりではなく私たちを取り巻くこの地球、その環境と時間と空間の総てに「ありがとう」
としみじみと感謝し、自分の生命に素直に感謝を捧げられる事が出来た。
そんな心の世界へと旅をさせてくれる作品だ。
人はみな、否、人類は宇宙の歴史そのものを正にこの肉体と言う60兆の遺伝子としてDNAそのも
のに内包していると言う事実に希望と安心と人類の可能性をみる。そして人類は孤立した孤独
とは無縁の世界にいる事を教えてくれたこの映画は、究極の愛のバイブルなのかもしれない。
そして、この映画を見たあなたは、一体どんなご自分の人生の木を育て、どんな花や実を結ぶ
事だろうか?そんな想像もとても楽しみなものである!
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