家の鍵のレビュー・感想・評価
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見続ける事にへこたれてくる
見続ける事にへこたれてくると、
シャーロット・ランプリングが
「汚れ仕事は女がやらされる」
「男は理由を付けて逃げる」
「珍しいわね、あなたは男なのに?」
と、観ているこちらの心臓に匕首 アイクチ の切っ先をグサリと刺し貫いてくる。
CP =脳性マヒのパオロと、
15年ぶりに再会して「父親らしいことをしなくては奮闘する」実父ジャンニの日々だ。
通りすがりにちょっと声を掛けたり、手を貸したり、
それなら誰でも出来る事なのだが、いつ終わるとも知れぬ共同生活のスタート=つまり出生前診断とか、難産とか、育児と医療と福祉行政の間での駆けずり回りとか、そして自分が死んだあとのその子の事とか。
保護者は「そう簡単ではない境遇」に、否応なしに突入せざるを得ない。
まだパオロとの同居がたった2日目のジャンニが
20年選手のランプリングに対して
“同じ境遇の者同士の共感と慰め"を求めて問う 一言 ―
「娘さんを愛しておられるんですね」。
母親は急に会話をドイツ語に戻して何言かを返すが、彼はそれは解せず、また画面には字幕も省略される。
敢えて字幕無し。
ここだ。
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僕は学生時代の五年間、二人のCPの若者の介護をしていた経験がある。
一人は出産時の事故で。もう一人は薬害で。
食事、排泄、着替え、外出、入浴・・
そして彼らの文筆活動の手助けや、人生のさまざまの援助。そして黒子として車椅子のそばで付き合う彼らの恋と失恋。
本人も、介助者や家族も、心も体も素っ裸で体当たりで、ガチで付き合うしかなかった五年間だった。24時間のチーム介助だった。
僕は学校を卒業して転居して、彼らや、彼らの家族との関係は終わったのだが、大学ノートにびっしりと隙間なく名前が埋められていく「24時間の介助チームのシフト体制」は、きっと今も引き継がれているんだと思う。
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誰に話すでもなく娘ナディアとの日々を語り、
語り終えて地下鉄のベンチで呆然としている母親、
固まって動けなくなっている母の姿に、激しく打たれる。
ジャンニへの容赦しない糾弾は、彼女本人が自分自身に向けて言い続けてきた言葉なのだ。
シャーロット・ランプリングは
時に審判者としての凄味を持ってジャンニの前に立ちはだかり、
また時に当事者として、深い傷を共有する仲間として新参者に寄り添い、
素晴らしい役どころだった。
「情」のイタリヤのネオ・リアリズモと、冷徹な「哲学」のベルリンを結び、人間の生の行方に目を注がせる秀作。
何かが好転するような、めでたしめでたしのロードムービーでは全くありません。
家族の生の姿をそのままに見せる
いい映画でした。
杖を捨てて何故感動したのかよく分かってない
障がいを持った子と、かつて彼と向き合う事から逃げた父親による物語。
そもそも家族と正面から向き合うというのは、なかなか自分に満点をつけられる人のいない意外にも難しい事で、それを浮き彫りにしつつも、悲観的になりすぎない、一定の温かみを持った作品。
個人的には、父が杖を海に捨て、息子が「イカれてる!!」と爆笑するシーンが、理由のよく分からない琴線に触れ、この映画の点数を大幅に上げた。
おせっかいがすぎるところもありながら、決してダメダメな父親にデフォルメされているわけではなく、
むしろかつて子との関係を放棄した事を真摯に反省しながらも、イライラしたり泣いちゃったりする、ちょうどリアルな父親の姿は、特異な環境と言えど共感できるものだった。
そして、パオロの演技は群を抜いていたと思う。
現実を知った男の涙は・・・
障碍者の息子と15年振りに再会し、ベルリンのリハビリ検診の共同生活を通して、父として人として成長し変化する男を見詰めた地味な社会派作品。”現実に向き合う”視点の偽りない制作姿勢は、イタリア映画のひとつの特長である親子の絆をネオレアリズモの手法で描く伝統の、今日的帰結である。ドラマとしては、ベルリンの病院で知り合うシャーロット・ランプリングの存在でストーリーに膨らみを得ている。主人公に障碍者の親の手本の様に思われて気付く、彼女の辿り着いたところに本当のことがあるに違いない。恋人を出産時に亡くした主人公の”愛情の行方”が再び息子に向けられ、淡い期待感と幸福に包まれたかに見えたラスト、自動車運転の邪魔をする息子にキレて現実に戻される。そこで流す涙の意味は何なのか。自己反省だけの涙ではないのかもしれない。ここをフェリーニの「道」のオマージュと見たが、それは失って初めて気づく涙であり、この若い父の涙は、これからのことに対する覚悟のなみだであろう。本当のことは本人にも解らないのかもしれない。
ノルウェーの美しい自然を背景に父と子の旅を描く結末は、男の複雑な涙で締めくくる。心に沁みるイタリア映画らしい作品でした。
シャーロット・ランプリング
実の父親であるジャンニの喜びと苦悩。心理描写がリアルすぎたおかげで涙を止めることができなかった。
ジャンニの息子パオロよりも思い障害を持っている女の子の母親シャーロット・ランプリングでしたが、「自分の息子ではない」と嘘をつくジャンニを見透かしたように鋭く助言を与えていました。初めて会ったときから、障害児を抱える親の辛さを訴えるのではなく、本音をさりげなく言うところにドキリとしてしまいました。特に「死んでしまったほうが・・・」などと言うところは、最近よくある介護疲れによる殺人事件をも思い起こさせるのです。
父親ジャンニ(キム・ロッシ・スチュアート)は今では妻子もあるが、15年前に恋人の死のショックから障害を持ったパオロを手離してしまっていた。その罪悪感もあってパオロを育て上げる決意をするのですが、「自分を父親と認めてくれるのか」という心配がつきまとい、彼への接し方にも苦労が絶えません。リハビリ病院の行事中にパオロがいなくなるという、ちょっとした事件の際、うろたえぶりや最悪のことさえ考えていた様子などは演技がリアルすぎて怖いくらいでした。また、甘やかしたり、気を引こうとしたり、リハビリ中に思わず抱きしめたりと、ぎこちなさいっぱい。パオロの中でいつ父親と認めてくれるのかとハラハラしてしまいました。
突如、パオロの文通相手の女の子にノルウェーまで会いに行こうと思い立ったジャンニ。ここからのロードムービー風演出によって父と息子が真に向き合うのですが、心と心の隔たりが一気に氷解するかのような一瞬がたまらなく良かった。やっぱり子どもにとって一番の関心事は親なんですよね。
パオロを演じたアンドレア・ロッシは自然な演技で本当に障害児だと感じたくらい。そして、イギリス人のランプリングはここではドイツ語とイタリア語を喋るのですが、いったい彼女は何ヶ国語喋ることができるんでしょうか・・・すげぇ。
観て良かった
たまたま『サラの鍵』の後に観た『家の鍵』。どちらも子供が印象的な作品。そして、どちらもラストの唐突な感じが心地いい。立て続けに観た2つの鍵は、どちらも深く重い作品だった。
多くを語らない設定に、最初は戸惑ったが、見ていくうちに、細かい疑問は解けていく。シャーロット・ランプリングの存在感がさらにセリフに重みを与えて胸に突き刺さる。子育てには覚悟が必要。
子役の存在感が凄い
突然「貴方の子供なので後は宜しく」
もしもこんな事態が生じたら果たして平静を保っていられるのだろうか?この映画の主人公の立場になって感情移入している自分が居た。
先ずはあの子役の存在感が凄いですね。おそらく作品の価値の半分位はこの子に掛かっていると言って過言では無いでしょう。
ただし内容はひたすら淡々と進んで行く為にかなり平板な印象は否めません。そこをどう受け止めるかでしょう。
主人公にアドバイスを贈るのが‘先輩’にあたるシャーロット・ランプリング。
「一緒に暮らして行くなら覚悟が必要」
「他の子が遊んでいるのを見て妬んだ事を恥じてはいない」
そして…
この後に彼女から発せられる言葉の重みが深く心に残ります。
決して楽しい作品ではないですが考えさせられる作品でした。
(2006年4月28日岩波ホール)
設定がわからず物語に入り込めなかった
総合:60点
ストーリー: 60
キャスト: 75
演出: 65
ビジュアル: 70
音楽: 75
はっきりとした状況の説明がないために、当初は何がどうなっているのかわからない。誰が誰であり今どうなっていてこれからどうするのか。それがわからないままに日常がひたすら淡々と描写され続けるために、かなり退屈に感じてしまった。画面に何が起きているかを見る前に、彼らはどういう関係で何をやっているのだろうかという疑問を解決することに意識がいってしまう。物語が進むにつれて背景の事情もほのめかされてくるし、父子関係も進展してくるし、特に父親の感情の変化や悲しみや愛情が理解できるようになる。この映画の良い部分は理解できるが、でもそれ以前に自分の意識が物語に入り込むことが出来ずにいた。 出演者の演技は良かったと思うが、全体に演出も地味で冗長に話が進んでいくのものめり込めなかった理由の一つ。
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