「「恨」の表出としての復讐」復讐者に憐れみを 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
「恨」の表出としての復讐
パク・チャヌク映画の脚本力の高さには毎回驚かされる。登場人物たちの足場を少しずつ少しずつ切り崩していくような着実な追い詰め方。それゆえ登場人物たちの行動や言動には、そうせざるを得なかった、という苦渋と後悔と諦念に満ちた必然性がある。数多ある選択肢の中からたまたま一つをチョイスした、という感じがまったくしない。そういう意味では『ブラッド・シンプル』『ファーゴ』あたりのコーエン兄弟作品に近いかもしれない。振り返ったときにはもう戻れなくなっている。登場人物たちの緊張関係とその顛末は、もはや滑稽にすら思えるほど勘違いとすれ違いの連続で、それはあたかも現代社会のグロテスクな戯画であるかのようだ。
一直線に地獄へと続くこの連鎖から逃れる唯一の術は、各々が抱く復讐心をかなぐり捨てることだったが、それができれば苦労はしない。韓国はその被支配的な歴史経緯から「恨」の文化というものが強く根付いている。これは単に怨恨のみならず、憧憬や無常感をも含む感情的なしこりのことを指す。こうした「恨」の最もラディカルな表出が復讐だ。ゆえに復讐をやめろというのは、韓国人たちの歴史と実生活の両面に強く結びついた「恨」の文化を手放せと言っているようなものだ。しかし繰り返すようだが、そんなことは簡単にできない。日本がいつまでも忠臣蔵」の「恩義」的規範意識を脱することができないのと同じで、「恨」もまた韓国においてはきわめて強固で普遍的なナショナリズムなのだ。
ただ、本作のラストシーンでは、そうしたナショナリズムの行く末が、人間性の枯れ果てた不毛地帯であることが示される。本当にこれでよかったのか?というパク・チャヌクの疑念が、謎の男たちに思いがけず刺殺されたソン・ガンホの今際の際の表情に表れている。