「意欲策ではあるんだろうけれども…」靴に恋して talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
意欲策ではあるんだろうけれども…
本作に登場する5人の女性それぞれの「生きざま」を描いた群像劇というのが、本作の内容だと思うのですけれども。
そうして、邦題からすると、それぞれの女性が履いている靴が、それぞれの女性の「価値観」や、そういう価値観のゆえの「生きざま」と抜き差し難く結びついているかのような思わせぶりです。
以前に、法廷では帽子を脱ぐべきかどうかということで見解が分かれて、脱帽を指示した裁判所(裁判官)と、それを拒否して退廷命令にも従わなかったという傍聴人との間でトラブルにがあったというようなことを、新聞の記事でで読んだことがありました。
裁判所(裁判官)としては、屋外ではともかく、日本では室内で帽子を被るという習慣がないという常識から発した訴訟指揮だったとは思うのですけれども。
しかし、件の傍聴人の女性に言わせると、帽子もコーディネートされた服装の一部であり、帽子を脱いで裁判を傍聴せよと言うのは、洋服(の一部)を脱いで裁判を傍聴せよと言うに等しいと言いたかったのだろうと思います。
同じく身につけるものということでは、帽子も靴も、人によっては、選ぶところはないのだろうとは思います。
そして、身につける服装や履く靴は、ある意味本人の価値観というのか、ライフスタイルというのか、そういうものと無縁でない部分があることは間違いがないとも思います。
けれども、その女性が着用する靴で、その女性の「人となり」や「生きざま」のモチーフとしようとすることには、映画製作ということでは「意欲作」と言えるのかも知れませんが、少なくとも本作の場合は、結局のところ、その両者がちゃんとリンクしていないんじゃあないかというのが、偽らざる印象でした。本作を観終わって。評論子の。
いちおう本作中では、アニータ(スニーカーを履く女)、イザベル(小さな靴を履く女)、アテラ(扁平足の女)、レイレ(盗んだ靴を履く女)、マリカルメン(スリッパを履く女)と、それぞれ定位はされてはいますけれども。
しかし、それぞれの女性がそういう靴を身につけていることと、それぞれの女性の生きざまとを明確に結びつける(少なくとも暗示する)描写は、残念ながら、本作の中にはなかったように、評論子には、思われました。
作品の内容が、題名(邦題)に負けてしまっているといったら、それは酷評だと叱られてしまうでしょうか。
それぞれの女性が、問題の多かったそれぞれの現状を乗り越えて、明日への希望を掴みとったことは心の救いですけれども。
映画作品として残念な一本だったと思います。