「「父親をする」とはどういう事か」父、帰る ゼリグさんの映画レビュー(感想・評価)
「父親をする」とはどういう事か
冒頭、高台から飛び降りる事の出来ないイワン。
そのせいで、友人達からはバカにされる。
本来、ここで飛び込む必要はないのだろう。
皆がいる場所へ行くだけでいいのなら、別の方法もあるはずだ。
つまり、これはただの度胸試しであり、友人同士がまたつるむための「通過儀礼」に過ぎない。
その通過儀礼を達成出来なかったイワンは、皆から仲間外れにされる。
これがこの映画のオープニングだ。
つまりこれは「通過儀礼」の映画であるという事を示している。
父親は息子たちに厳しく当たっている。
まるで、12年分の教育をたった数日間に詰め込んでいるようだ。
もちろん息子たちは父に反感を抱く。
観ている側も疑問に思うだろう。
急に現れたこいつは、なぜこんなに偉そうなんだと。
だが、父親は息子たちの質問に答えない。
父親は何がしたいのか、映画の中では語られないため、目的も動機も明らかにならない。
だが、冒頭で提示された「通過儀礼」というテーマと照らし合わせて、兄弟が映画の中で行った数々の「共同作業」を見てみると、だんだんと分かってくる。
父親は息子たちに様々な事を強要している。
反感されるのも厭わずに。
なぜだろうか。12年ぶりに息子たちのもとへ帰ってきたのであれば、好かれようとするのが普通である。
親子の旅は、いわゆる「親睦を深める」という目的とはかけ離れている。
父親は息子たちにあえて厳しくしている。
そのせいで、車内は常に冷たい空気で包まれている。
「イワンが生意気だから」とか「アンドレが言うことを聞かない」から、というのもあるだろう。
だが、彼らは絶対に反抗しないといけない。立ち向かわなければいけない。
なぜなら、父親は自分の身を呈して、自分自身を「障害」にすることで、兄弟の絆を深め、成長させようとしているからである。
なぜ、監督はわざわざ車を兄弟で押させるシーンを撮ったのか。
なぜ、父親ではなく兄弟に力いっぱいボートを漕がせたのか。
なぜ、死んだ父親を、兄弟であんなに重そうに運ぶシーンをわざわざ長々と見せたのか。
それらの「共同作業」を兄弟にさせる事が、この映画の目的だからである。
あの無愛想で厳しい男は、自分の身を犠牲にして、兄弟が成長して大人になるための「通過儀礼」を行ったのである。
それは無人島から帰ってきた時点で終わっている。
だからこそ、男がボートで沈む瞬間にイワンは男を初めて自分の意志で「パパ」と呼んだのだ。
男は自分の体を犠牲にして、ようやくアンドレとイワン、「2人の息子の父親」になれたのである。
父親が今までどこにいて、何をしていて、何をしに来たのか。
その正体も、動機も解らない。
だが、物語には何の支障もなく、説明など何の必要もないので、語られる意味などない。
それは例えば、ラストシーンのモノクロ写真で表現されるようなクラシック映画の登場人物のようであり、西部劇のようでもある。
余計な背景も動機もいらない。
この映画はただ、兄弟が本当の兄弟になり、父親が本当の父親になるだけの映画である。
それがどれだけ素晴らしいことか。
最高の映画だ。