「Bedazzled」悪いことしましョ! 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
Bedazzled
わたしはじぶんはどちらかといえばするどくてシリアスなタイプだと思っている。ただし賢いというわけではない。
するどくてシリアスなままで生きようとすると生きにくいので表向きは丸くてふざけている鷹揚なキャラクターであろうとして、するどさやシリアスが出ないように冗談ばかり言って過ごす。すなわちいじりやすいキャラクターに身を置く。
いじりやすいキャラクターに身を置いている人ならご存じだと思うがいじりやすいキャラクターに身を置いているとしばしば本気で馬鹿にしてくる奴があらわれる。そういう奴がかならずあらわれる。
それがあらわれたとき、わたしは本来のするどくてシリアスな自分をさらけ出して怒ってしまうことがある。そういう手合いはこっちが怒らないと永遠にわたしを馬鹿にしつづけるからだ。
ところが怒ることでじぶんが装ってきた鷹揚なキャラクターが崩壊し、誰もいじってくれなくなる。
じぶんを大切にするという意味において馬鹿にしてくる奴を一喝することは必要だと思うが社会生活上キャラクターを剥がされると日常がやりにくくなる。
人前で怒ったところを見せてしまったら、いいことはひとつもない。もっとうまくやるべきだったのかもしれないが、こっちは自制がきかずに文字通り怒ってしまったのだ。
いじりやすいキャラクターなんか装わなければよかったのかもしれないが軽々としたキャラクターを装うこと自体がわたしの本質でもある。装いたくて装っているのではなくそういうキャラクターを装わないと生きていられないのだ。
しかしどんなキャラクターを装っていようとどのみち馬鹿にしてくる奴はあらわれる。学校でも会社でも団体でもどこであろうと馬鹿にしてくる奴はあらわれる。
(「わたしは人に馬鹿にされたことなんかない」という幸福な人もいるのかもしれないが・・・。)
人間関係や渡世術について数多の賢者・著名人がアドバイスを出しているが役に立たないのはわたし/あなたの感情も環境もわたし/あなた独自のものだからだ。
人生相談というものは参考になるが(逆に言うと)参考にしかならない。
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昔この映画を見たときキャラクターがとても刺さった。
じぶんも人界でエリオット(フレイザー)のように馬鹿にされるポジションに身を置くことがあるからだ。
むろん映画のようにはうまくいかない。どこかで中途半端にキレて誰からもかまわれなくなる。いじられるキャラクターでも、そうでないキャラクターでもなくなる。
周囲にたいして“じぶんをこういう人間に見せよう”と画策し装っていた化けの皮はすぐに剥がされてしまうものだ。かといって装わなければやっていられない。
エリオットのキャラクターはその本質を突いていた。ある程度じぶんをまぬけに見せなければ(じぶんを下に置かなければ)人間関係を築けないという人がいる。こういうことはひろゆきorホリエモン的な勝者アドバイスがまったく用を為さない。コンプレックスを考慮しなければコンプレックスのなかで生きている人間のアドバイスはできないからだ。リテラシーともいえる。
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1967年のイギリス映画「Bedazzled」のリメイクとのこと。ファウストの伝説を現代ドラマ化しているそうだ。ファウストの伝説とはゲーテの戯曲で人生に退屈・落胆している学者ファウストが悪魔の使いであるメフィストフェレスに魂を売って一定期間魔力が使えるという話。
ブレンダンフレイザーの人気絶頂期だがイギリス訛りをつかうAIのようなエリザベスハーレイの代表作でもあった。
IMDB6.1、RottenTomatoes50%と43%。批評家も世評も低調だが個人的には思い出深い映画になっている。世渡り下手な陰キャの本質をとらえている。教訓のような核を取り出す(Groundhog Dayの)ハロルドライミスらしさがあったと思う。