「完全犯罪のゲームに酔う異常者とその恩師の会話に込めた、哲学解釈の正当性」ロープ Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
完全犯罪のゲームに酔う異常者とその恩師の会話に込めた、哲学解釈の正当性
1924年に現役のシカゴ大学生レオポルドとローブ二人の誘拐殺人鬼が起こした”世紀の犯罪”を元にしたアルフレッド・ヒッチコック監督の、全編ほぼワンシーンで繋げて時間の同時性をサスペンスフルに生かした実験演劇映画。パトリック・ハミルトンの同名舞台劇を原作としている為、犯行の詳細は事実と異なるが、映画の殺人鬼ブランドンとフィリップが裕福な家庭で育ち知能指数も高く犯罪を犯すような青年には見られない点や、ニーチェの超人思想の信奉者だったのが共通する。実際は殺人行為のスリルを味わい完全犯罪の達成感の快楽に酔う為だったと思われるが、映画はこのニーチェの理論に染まる象牙の塔を象徴する恩師ルパード・カデルを主人公にして、哲学的な思考の解釈についての問題提起を施している。当時の社会通念でのモラルハザードの危険性を承知したヒッチコック監督の犯罪心理学上の野心と、主演を務めたジェームズ・スチュアートのどう演じて良いものかの困惑が演技の質にまで表されている。時代に先駆けた主題の内容は、実験的演出の斬新さと共に、60年経た今の社会状況や映画表現においても注目に値すると思う。
物語は、アパートの一室で繰り広げられるハーバード大学を卒業した同級生3人の愛憎劇が主軸になる。恩師カデルの哲学思想に最も共鳴する主犯格のブランドンは、悪戯好きの虚栄心が強い自意識過剰な鼻持ちならない男。彼の虐めに合いながら服従するフィリップは、犯行後動揺を隠せずカデルの観察対象になり、そのカデルの推理の過程が映画展開を進める。最初の訪問者は、被害者デイビッドのライバル ケネスで、デイビットの婚約者ジャネットの元彼になる。ふたりの殺人鬼を特徴付ける為か、最も平均的なアメリカ青年のキャラクターだ。そこへジャネットが現れケネスと鉢合わせとなり、ブランドンの策略と彼女が疑い始める。更に驚くべきは、フィリップの送別会を兼ねた今宵のパーティーにデイビッドの両親まで招待したことである。ジャネットはケネスと付き合う前はブランドンと交際していたとの会話があるので、この男女4人の痴情のもつれが犯行動機であるのかと思わせる含みがある。ハーバード大学の平凡な学生なら誰でも良かったとケネスの名前も挙げていた。しかし、デイビットの両親までとなると、完全犯罪を目論む自らの行為を見せびらかす優越感に浸る歪んだ心理状態が想定される。だが、デイビットの母親は風邪を引いて来れず代わりに伯母のアニータが父ヘンリーと訪れる。これは、いつまで待っても居場所を掴めないデイビットを心配する母親を舞台の外に置くことで、会話劇の中身と変換を多様にするテクニックに繋がっている。そして、家政婦ウィルソンが舞台を自由に動き回ることでカメラワークの単純化を防ぎ、最後に突然と現れるカデルとの会話では、客観的な視点のアドバイスを提供することになる。
小道具の使い方は、相変わらずの巧さを見せる。題名のロープは勿論、チェスト、燭台、本、チキン、帽子、シガレットケース、拳銃、と固定された狭い舞台を飽きさせない。異常殺人ではキャプラの「毒薬と老嬢」がブラック・コメディの傑作だが、このヒッチコック作品にはユーモアが全くない。強いて言えば、占い好きなアニータがフィリップの手を見て大きな名声をもたらすと予言する会話と、アニータとジャネットがカデル演じるジェームズ・スチュアートを真ん中に挟みながら、好きな男優の話でジェームズ・メイソン、エロール・フリン、ケーリー・グラントの名前を挙げるところくらいだ。しかも、グラントがイングリッド・バーグマンと共演したヒッチコック作品「汚名」での両者を褒め称えるオマケつきだ。
最後、ふたりの犯行に愕然とした哲学者ルパード・カルデは、アパートの窓から夕闇の空に向かって拳銃を三発撃ち、通報を促す。崇高な哲学的理論の代弁者を自認する彼の、教え子に裏切られた無念さを表す三発であろう。論理と知力の教えを曲解し、単なる殺人者に堕ちたふたりを自ら制裁する二発と、そんな教育を結果してしまった自責の念の一発なのではないだろうか。
ブラック・ユーモアをひとつ。ヒッチコック夫妻が日本に来日した折、映画が変わるたびに新たな殺害シーンを見せるヒッチコック監督にそのアイデアについて質問したところ、少しも表情を変えず隣にいる夫人を指して、彼女がすべて考えてくれると答えたそうです。嘘と分かっていてもヒッチコック監督らしいユーモアに、納得のエピソードで忘れられない。