「真の贖罪は名誉回復ではなく、死を賭しても約束を守ることにある」ロード・ジム 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
真の贖罪は名誉回復ではなく、死を賭しても約束を守ることにある
〈主なストーリー〉
ジムは若く希望に溢れた航海士だったが、嵐に巻き込まれ死の恐怖に直面したため、船と乗客を見捨てて逃亡する。卑怯で不名誉な過去を背負った彼は、アジアの某国で暴力的支配を受けている一部族の反乱に協力し、今度は英雄として処遇される。
その後襲撃してきた強盗の一群も見事に撃退するのだが、強盗の首領たちとの撤退交渉の際、「もし強盗団が撤退しないで一人でも殺されたら、自分の生命で償う」と約束していたにも拘わらず、自分の責任で部族リーダーの息子を死なせてしまう。
リーダーは「今夜のうちに出て行け。さもなければ一族の掟により処刑する」と告げ、父親同然の白人老人からも一緒に帰国することを勧められるが、ジムは死刑となることを選択する。
ざっと以上のようなストーリーで、若くして不名誉を負い、落伍者に転落したジムが、自暴自棄になって社会の底辺の労働に従事していく姿や、アジアの部族の反抗に、自分の生命を賭けて協力していくところは、罪人が贖罪により立ち直っていく過程として気持ちがいい。
だから最後に強盗団が来て、たまたま交渉に失敗した結果、部族の若者が殺されてしまったとしても、そしてジムが生命を投げ出すと約束していたとしても、部族の解放により多数の生命を救済した英雄が進んで生命を投げ出す理由はないのではないか、と昔見たときは思ったものだった。
〈贖罪の論理〉
いま改めて見直して、ジムの贖罪の論理を辿ってみると、彼が拘っていたポイントは、英雄となった後も、部族の信頼を失うことを恐れて過去の罪、卑怯で不名誉な業績を隠し通したことにあったのではないかと思う。
ジムの心中を皮肉にも読み切っていたのが強盗団のリーダーで、彼は「あいつには罪を悔い改めた者のいやらしさがぷんぷん臭う。他人の信頼が欲しくてしょうがないのさ」と指摘する。
ここから察するに、ジムは功績をあげ他人の信頼を得たいがために、生命賭けで部族の反抗を助けたのだろう。信頼を失うことが怖くて、過去の罪も隠し続けた。信頼回復=名誉回復のために生命を賭けたのであって、真の贖罪とは別種のものだった。
最後の対話シーンでジムは「行為はたいした意味がない。その理由が大事だ」と語る。恐らく自分のエゴのために部族の若者を殺してしまったことに気づいたジムは、最後に本当の意味での贖罪=名誉回復などではなく死を賭して約束を守ることに決めたのだろう。
それにしてもピーター・オトゥールは、珍しいほど色気のあるいい男優だなと痛感させられる。
コメントいただきありがとうございます。参考にしていただいたなら書き甲斐があって嬉しいですね。
ついでにオマケの情報を書いておきましょうか。
ご存じの通り、本作には日本人俳優・伊丹十三が重要な役どころで出演しています。
伊丹は作家・大江健三郎の義兄ですが、大江の長編小説『日常生活の冒険』は伊丹をモデルにした傑作です。この小説によれば伊丹は主人公・斎木犀吉として、次のような人物として描かれています。
<犀吉は最初、スエズ戦争の義勇兵志願の高校生として登場し、その後、新進映画俳優、夜警、バンタム級ボクサーのパトロン、演劇集団の立ち上げを目指す人物、など次々と職業や立場を変えて現れる。しかし何をやっても完遂できず「おれはまったくなにひとつやりとげなかったなあ。おれにはなにひとつやれなかったなあ。」との慨嘆をし、果てには自殺する>
小説の書かれた時期が1963~64年ですから、主人公が新進映画俳優として登場する話は『ロード・ジム』より少し前、伊丹が『嫌い嫌い嫌い(1960年)』『銀座のどら猫(1960年)』『偽大学生(1960年)』『大津波(1960年)』『黒い十人の女(1961年、大映)』等の映画に出演していた頃のエピソードを基にしているのでしょう。
大江はまた2000年の小説『取り替え子』で伊丹十三を思わせる人物を描いていますが、逆に伊丹は大江の『静かな生活』(1990年)を1995年に映画化しています。
こうした遠近法の中で見ると、ただの未開なアジア人の若者としか描かれていない伊丹の姿が、何だかユーモラスに見えてくるのは小生だけでしょうかw