「1988年5月 旅先アムステルダムのホテルの窓からの転落死でアルバム『チェット•ベイカー』を完成させたとも言える伝説のジャズ•ミュージシャンを死の直前まで追ったドキュメンタリー」レッツ・ゲット・ロスト Freddie3vさんの映画レビュー(感想・評価)
1988年5月 旅先アムステルダムのホテルの窓からの転落死でアルバム『チェット•ベイカー』を完成させたとも言える伝説のジャズ•ミュージシャンを死の直前まで追ったドキュメンタリー
ジャズの初心者が「1950年代60年代あたりのモダン•ジャズに興味を持ち始めてるんだけと、どのあたりから聴いていったらいい?」という質問をしたとします。可能性のある答えとして「まずマイルス•デービスのリーダー•アルバムをどんどん聴いてゆけばいい。他のプレイヤーもマイルスと組んだときにベスト•パフォーマンスをしていることが多いから最良のジャズが聴ける」というのがあります。なかなかいい回答だとは思いますが、これだと何人かのピアニスト、サックス•プレイヤー、ベーシスト、ドラマーには出逢えて聴き比べることもできますが、マイルスが吹いている限り、別のトランペッターには出逢えません。
私は1980年前後にジャズをかじりかけたことがあってマイルス•デービス(当時はまだ存命でした)やテナー•サックスのジョン•コルトレーンあたりの名前は憶えたのですが、ロックと比べるとジャズはやはり敷居が高く、チェット•ベイカーもその当時はまだ存命中だったはずですが、彼のところまでは、たどり着けずにいました。
私が彼の名を知ることになるのは今世紀に入ってからです。何がきっかけだったのか、まったく忘れてしまったのですが、私は50歳前後あたりから始まって数年間、’50〜’60年代あたりのジャズを聴きまくっていた時期があり、そこで彼と出逢い、お気に入りのトランペッターのひとりとなったわけです。
和田誠がジャズ•ミュージシャンたちの肖像画を描いて、そのミュージシャンひとりひとりについて村上春樹が文章を書いた『ポートレイト•イン•ジャズ』なる本があります(かなり熱心に何回も読んだのですが、どこにしまいこんだやらで行方不明です)。この本の冒頭にひとり目のジャズ•プレイヤーとして登場するのが他ならぬチェット•ベイカーです(たぶん)。村上春樹は彼のことを「紛れもなく青春の匂いがした」とか「何か特別なものを持っていた」とか書いていたはずです(たぶん)。
でも、その特別のものを持っていた期間はそんなに長くありませんでした。麻薬が彼を駄目にしました。また、そのスジの人たちに殴られて前歯を折られ、下顎を骨折するという、トランペッターにとっては致命的とも言えるケガもしました。
でも、そこから立ち直って音楽活動を再開するんですよね。このドキュメンタリー映画では再開から何年もたった彼の姿を捉えています。映画自体は1988年の製作で、恐らくは彼の謎の転落死の後にまとめられたもの。最晩年の姿と彼が「ジャズ界のジェームズ•ディーン」と呼ばれていた若い頃のフィルムとの組み合わせです。それにしても最晩年の彼の姿と言ったら…… まだ、50代半ばだったはずですが、70代のよぼよぼの爺さんみたいな風貌になっており、麻薬によるダメージの怖さを見せつけられた感じがします。
彼は歌も歌います。ファルセットの中性的なボイスでまあ「ヘタウマ」な感じですが、繊細で退廃的な香りもします。’50年代半ば頃に発表された彼のボーカルをフィーチャーしたアルバム『チェット•ベイカー•シングス』は私の愛聴盤のひとつです。10年ほど前の彼の伝記映画『ブルーに生まれついて』ではイーサン•ホークが彼を演じたのですが、ボーカル部分はイーサン•ホーク自身が歌っていたと記憶しています。
結局のところ、彼はジェームズ•ディーンが演じた映画の中の登場人物を思わせるような、儚くも美しい音色でトランペットを吹き、まわりの空気とこすれて消えてしまうのではないかという繊細で甘い歌声を披露して自らの青春をまっとうしたのではないでしょうか。そして、幸か不幸かはわかりませんが、彼には本家ジェームズ•ディーンにはない「その後」があったのです。麻薬中毒でボロボロになり、麻薬を巡るトラブルでトランペッターにとって命とも言える口のまわりのケガを負い、そして、再起して懸命に吹き、歌い、よぼよぼの容姿で欧州をさまよい、アムステルダムで58歳で生涯を閉じる「その後」が。
今、私はギタリストのジム•ホールがリーダーを務めたアルバム “Concierto” の『アランフェス協奏曲』を聴いています。開始四十数秒後、あのあまりにも有名な、ホアキン•ロドリーゴ作曲アランフェス協奏曲第2楽章のメロディに乗って、チェットの吹くトランペットが登場します。1975年4月録音ですので、このときチェット45歳。クスリとケガでボロボロになった後の再起にかけていた頃です。ジム•ホールのジャズ•ギターありきで構成されている曲ですので、チェットの演奏時間はそんなに長くないのですが、かつて何か特別なものを持っていた人間の青春の残響を聴いているようです。もう一方の吹奏楽器、ポール•デスモンドの奏でるアルト•サックスがしっとりと湿り気めいたものを帯びているのに対して、彼のトランペットは乾いた音色で、遠くに蜃気楼のようなオアシスが浮かぶ、美しい砂漠の景色を見ているようです。かつて持っていた特別な何かを失くしてしまったチェットは本当に人生の砂漠を見ていたのかもしれません。どこかにあるであろうオアシスを求めて。トランペットのソロ•パートに入ると懸命に吹くチェットの残像が浮かんできます。この残像は砂漠の蜃気楼かもしれません。でも、1929年12月23日アメリカ•オクラホマ州に生まれ、1988年5月13日にオランダ•アムステルダムで亡くなった、ジャズ•トランペッターで歌手でもあったチェット•ベイカーは確かに存在したのです。このことはいつまでも忘れずにいたいと思います。
合掌。
