「人食い花が表すもの」リトル・ショップ・オブ・ホラーズ(1960) 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
人食い花が表すもの
異形の生き物の動向がそのまま主人公の精神状態のアレゴリーになっている作品はわりかし多いんじゃないかと思う。
個人的には『フリクリ』5話に出てくる家電を食べて大きくなる怪物が好きだった。彼氏に捨てられた高校生のサメジマ・マミ美は、その寂しさを埋めるようにそいつにエサをやっていたのだが、次第に怪物は巨大化し、ついにはマミ美の言うことさえ聞かなくなる。
でも、そういうのって痛いほどわかる。ある絶望の中で肥大化した精神に歯止めをかけることなんか誰にもできない。もちろん自分自身にも。
彼女の心そのものである怪物が街中を壊して回るラストシーンには、あまりにも悲壮な痛々しさがある。
さて、本作においても、主人公の青年の精神状態の反映としてグロテスクな人食い花が登場する。
青年は、自身が勤める花屋での地位を確保すべく、見世物として自宅から不思議な花を持参する。しかしその花は人肉を主食とし、それがなければすぐ枯れてしまうのだった。
青年はひょんなことから人を殺してしまい、それを隠蔽すべく死体を花に食わせる。すると花は一晩にして巨大化。見世物として大いに花屋の経営を潤した。
青年の中で増大する「ヤバい…」という罪悪感を代弁するように、人食い花は大きくなっていく。花屋の売上もうなぎ上りだ。そして青年は第二、第三の殺人を犯す。殺人、巨大化、殺人、巨大化の無限ループだ。
しかし青年は最後の最後で感情の主導権を取り返す。殺人の責任を取るために、自らを人食い花に捧げたのだ。
何かに仮託された形で暴走する感情を食い止めるためには、もはやこうするしかなかったのだ、という青年のやるせない覚悟がここには垣間見える。
本作は、一人の青年が自分の感情の手綱を再び握るまでの過程が人食い花というファニーな可視的存在によって描き出された、ある種の心理映画と呼ぶこともできるように思う。