「大写しになった殺人鬼の眼球に映りこむ犠牲者の最期の姿! ゴチックスリラーのマスターピース。」らせん階段(1946) じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
大写しになった殺人鬼の眼球に映りこむ犠牲者の最期の姿! ゴチックスリラーのマスターピース。
建物内に潜む連続殺人鬼。
大写しになる窃視者の眼球。
そこに映りこむ美しき犠牲者の末期……。
ダリオ・アルジェントの『サスペリアPart2』ほか、多くの追随者を生んだ印象的な演出で知られる、ゴチック・ノワール・スリラーの代表的作品。
街を跋扈する、障碍者ばかりを狙う連続殺人鬼。
古色蒼然たる屋敷、口のきけない美貌のメイド、寝たきりの狷介な女主人、雷光ひらめく嵐の夜、雰囲気抜群のらせん階段……いかにもの要素満載で描かれる緊張感に富んだ、美女狙われ型のサスペンスだ。
ポイントは、なんといってもヒロインの声が出ないこと。
「しゃべれない」のではなく「心因的な理由で声が出せない」。
だから、屋敷内に殺人鬼がいるのに、目の前にしても叫べないし、助けも呼べない!
こいつはなかなか粋な仕掛けだ。
実際、終盤の無言の追いかけっこは不思議な緊張感があってとてもよかった。
『暗くなるまで待って』ほど強烈ではないけど、身障者ヒロインとしてしっかり輝いていたと思う。
建物の上下構造をサスペンスの醸成に存分に用いているのも評価ポイント。
基本、ヒロインは表階段を行き来するのだが、裏にはくだんの「らせん階段」があって、地下室に通じている。階段を昇降するたびに、話は展開し、情報量が増え、最後はアクションの舞台としても活用される(表階段のほうにある大鏡の使い方も効果的だ)。
建物の「内と外」というのも、いつの間にか空いている鎧戸の描写や、ドアの出入りでなにかと強調され、ここの要素はフーダニットとも深く関係してくる。
犯人が外部犯にせよ、内部犯にせよ、ヘレンが屋敷に戻って早々から屋敷内に犯人が侵入していることは、はっきりわかるつくりになっているので、ほぼ全編を通じて「いつ襲われるかわからない恐怖」と「無防備に歩くヒロインの背後のスリル」が満ちている。ちょっと『暗闇にベルが鳴る』テイストですね。
陰影に富んだノワーリッシュな撮影も、雰囲気の盛り上げに大きく寄与している。終幕間際、下からのライトで煽った殺人鬼の凶悪な面相が、通常のライトへの切り替えで突然しょんぼりするあたりは、とても面白かった。
ただ、今の時代からすると、古臭いというか、ツメの甘い部分もないことはない。
せっかくのサイコキラーものなのに「あの人物」を被害者にしちゃうと焦点が丸きりぶれちゃうだろ! とか、もしこの真犯人像だったとして、なんで今こういう状況になってて、しかも今日が敢えて決行の日なのか正直よくわからないとか。
女主人のウォーレン夫人は、キャラクター自体は本当に最高なのだが、何に気づいていたから「今日が決行日」だと推理して、しきりに逃げろとヘレンに勧めていたのか、もう少し映画内で丁寧に説明してほしかった。
あと、医者のパリーさん、あんた愛するヒロインが口がきけないことわかってて、「いざとなったら電話するんだよ」って番号のメモ渡してどうすんだよ。しかも、いざというときに「やっぱり戻れない」とか、どんだけ使えないんだっていう。ラストに間に合わないとか、それ、通常のドラマツルギーにすら反してるだろ!(笑) たとえ生き延びても、こいつと結婚しちゃダメだと本気で思う……。
犯人の目のアップにしても、効果自体は面白いが、少なくともこれで性別がはっきりしてしまうのはフーダニットとして正直もったいないと思う。ま、本格ミステリマニアのないものねだりだけど(でもアルジェントはそこをうまくごまかしていた)。
というか、わざわざ「意外な真犯人」を設定してあるのに、そこへの持っていき方が総じてあんまりうまくないんだよなあ。絶妙の設定なのに、細部の詰めで微妙に本格ミステリーマインドが足りない。
とはいえ、その後つくられた、さまざまなタイプのシリアル・キラーものやジャッロの祖型となり、霊感源となった作品であることは間違いない。今回、数十年ぶりに映画館で観て、改めてその出来の良さをじゅうぶん確認することができた。おすすめです!