ライムライトのレビュー・感想・評価
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一時代の終焉を意識して作られた映画
感想
ファシズムとの闘いと自身のモットーとする友愛主義に基づく映画製作の理想を掲げ、風刺の効いたサイレント喜劇映画の一時代を築いていくも共産主義的思想と見なされハリウッド映画システムから迫害、追放を受けた後にヨーロッパに活動拠点を移した喜劇王チャップリン。多くの賞賛と論争、そして栄光と苦悩の日々。さらに追い討ちをかける様に出てくるスキャンダル。様々な経験を経て晩年を迎えた喜劇役者としての集大成とした作品が本作である。この映画を簡潔に評すると、まさにチャップリン自身の考える悲喜交々の人生讃歌とサイレント喜劇映画全盛期、栄光の時代の終焉と訣別を哀愁に満ちた歳老いた大道芸人の死という形で表現した作品となっていると感じる。熟練度の高い技を感じる最後のスケッチショーの共演者は何とサイレント時代の最大のライバルであったもう一人の喜劇王バスター・キートン。負けず劣らない凄技を披露している。
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1914年、イギリス、ロンドン。
街頭にハンドオルガンの美しく楽しげな音楽が流れている夏の日の遅い午後。かつて高名を馳せた喜劇役者カルヴェロ。現在は世の中の人々からは忘れられ、仕事のオファーは殆ど受ける事なく体たらくの毎日が続いている。その日も朝まで居酒屋に入り浸り、昼日中から千鳥足で間借りしている家に帰宅してくる。
その日は大家が外出中で家に入るのも鍵が必要で事前に合鍵を借りていたカルヴェロは鍵穴に鍵を差し込もうとするも目が回りなかなか差し込めず可笑しげな挙動に。それを観ている近所の子供達にも呆れられ注意されるも笑顔で対応する酔っぱらいの男。
男の間借家の一階に住む心を病む貧乏な娘。彼女は睡眠薬をオーバードーズしてガス自殺を図る。そこに帰宅してきたカルヴェロは異変を察知して娘を助け出す。娘の名はテレーズ。大家の一方的な判断で自分の部屋を追い出され、階上階に住むカルヴェロの部屋で生活する事になる。
ここから今まで意味のない人生だと思い込んでいたテレーズの人生が変わっていく。今までの生活に疲弊し嘆き悲しむ彼女にカルヴェロは優しく、しかし力強く「年を取ると命が惜しくなる。生きる事が習慣となるのだ。これからの人生に希望が持てないというなら今この瞬間を全力で生きれば良い。生きていれば素晴らしいと感じる瞬間はいくらでもある。」
カルヴェロは話を続ける。私は半年前に医者に死ぬと言われたが、その悩みを克服して立ち直った。死ぬという事に立ち向かい戦うんだ。自分と戦うから辛いのだ。諦めてはいけない。幸福になる為の戦いをするべきだ。幸福になる為の戦いは美しい。幸福は人生に実在する。人間が頭で考える想像力こそが幸福になる為の秘訣であり、それを実現する力の源となるのだ。
命を断とうとする娘に対して必死に説得するうちに自分自身の人生を振り返る事になるカルヴェロ。再起を掛けオファーされた出演依頼に持てる最後の力を振り絞り挑戦していく。
テレーズはカルヴェロにせがまれて自分が一方的に恋した男の話をする。バレエを始める為にテレーズが文房具店に勤めていた頃にいつも五線紙を買いに来る男がいた。身なりから貧しいとすぐに察する事ができた。その男は酷く寂しそうで、弱々しく内気で感傷的な印象であった。ある日彼が感謝の笑顔を自分にかけてくれたのをきっかけに男の事をもっと詳しく知りたくなり下宿先と名前を知り得た。男の名はネヴィル。売れない作曲家であった彼はその日食べる物にも事欠き病気になり自分のピアノも売り払う始末。それでも五線紙だけは買いに店に来続け、テレーズはわざと紙を多めに渡したり、釣銭を多めに返したりした。その事が店主に暴露てテレーズ自身は店を辞めさせられた。その後再会した時には彼の作曲した交響曲は認められ成功者となっていたという。
カルヴェロは想像する。テレーズが再びバレリーナを目指し最終的に大成功を収める。ネビィルはテレーズを主役にしたバレエ組曲を完成させる。彼はバレリーナが文房具店にいた娘とは気づかない。そして五線紙を余計に渡していた話を告白して彼があの時の娘だと気付き、彼もまた娘に対しての愛を告白して今度は本当の恋人同志となるのだ!と。人生を恐れてはいけない。人生に必要なものは勇気と想像力。そしてほんの少しのお金である。と説く。
テレーズは足が思うように動かないと嘆くが、カルヴェロは生きることの素晴らしさと大切さを説いていく。テレーズも心を絆され次第に元気を取り戻していく。
カルヴェロの久しぶりのmiddlesexでの公演日が9月5日から一週間に決まる。酒を煽らずとも面白くできると息巻いていよいよ初日の公演に出演するが、観客が芸の途中で帰り出す顛末となる。残りの出演日も含めて劇場側に出演を断られ大落胆するカルヴェロ。その姿を見たテレーズは必死に彼を励ます。我を忘れて励ますうちに歩けるようになっていたのだ。歓喜するテレーズ。
二人は夜のロンドンテムズ川の岸を朝まで散歩する。夜明けが二人を包み込む。テレーズは自分が踊り子になり稼いで一緒に暮らそうとカルヴェロに提案する。
6ヶ月後、エンパイア劇場の舞台に立つテレーズの姿があった。劇場監督からカルヴェロへのオファーがテレーズを通じてあり、カルヴェロは出演する事を決める。契約の日舞台で練習するテレーズ。そこに監督とオーナー、そしてあのネビィルが音楽監督として現れ、オーナーの要望で音楽と共に踊って見せる。オーナーが気に入りテレーズはプリマドンナに抜擢される。
舞台の暗がりに佇むカルヴェロ。テレーズとネビィルの再会により更に運命の歯車が動き出すと感じる。未来を想像し何かを悟り泣いている。着替えてきたテレーズが現れ、「この時を待っていた。カルヴェロ!愛している。私と結婚して!」と宣うも、カルヴェロ自身は、私は老人だよ。考えられない。情けと愛は違うもの。としてテレーズの将来を案じつつ否定する。
ランチタイムに立ち寄ったレストランで偶然にネビィルに再会し共に食事する事になるテレーズ。取り留めもない話から以前文房具屋にいた娘の話になる。ネビィルは再会した時から文房具屋の娘はテレーズである事がわかっていた。気がつかないふりをするテレーズ。しかし今はカルヴェロが彼女の全てでありネビィルにはもうすぐ自分が結婚予定している事を話す。
テレーズが主役のバレエの企画が進み、3週間後、いよいよ開幕の日を迎える。物語は道化の物語である。第一幕。コロンビーナが死にかけている。恋人のアルルカンと道化が側にいる。彼女が窓からもう一度屋根を見たい言う。道化が泣き彼女が微笑する。彼女が道化に向かって芸が見たいと言う。道化が芸をしている間、コロンビーナの精が踊り彼女は死ぬ。第二幕。コロンビーナの墓場。アルルカンが登場。魔法の杖で恋人を生かそうとする。だが失敗する。精霊が彼女は墓の中にいるのではないと言う。コロンビーナの登場とソロが続く。テレーズは美しく躍動する。
斯くして公演は成功裏に終わる。劇場のオーナーが道化役が悪いと監督に伝える。舞台監督はオーナーに道化役者はカルヴェロが名を変えて出ている話をする。反省するオーナー。しかしその話がカルヴェロに漏れ伝わってしまい。芸に見切りをつけてテレーズの前から姿を消す。
物乞い同然のストリートミュジシャンと組んで大道芸を披露しては金の無尽を繰り返す生活をする毎日をおくるカルヴェロ。ある日ネビィルとエンパイア劇場のオーナーに営業で立ち寄った店で再会する。オーナーは仕事があると言うが、情けは無用とばかりに話に耳を貸さずにその場を去る。
二人と分かれた後、暫くしてテレーズが後を追うようにして現れる。記念企画の仕事がある。再起を掛けて出演して欲しいと伝えるとカルヴェロは長年温めてきたとっておきのミュージック・スケッチショーを古い芸人仲間と二人で考えているという。
往年の大スターを集めたカルヴェロ記念公演が始まる。実は成功した彼女がこの公演を企画していたのた。オーナールームを訪ねるテレーズ。観客に笑いどころを前説明で仕込んでおいたとオーナーに伝える。情けをかけられる事を嫌らう、誇り高い人間であるから尚更この公演で失敗して欲しくないという心配の一念で図った配慮であった。
楽屋で共演者とショーの準備をするカルヴェロ。オーナーやテレーズが次々と訪ねてくる。鏡の後ろに隠してあったウイスキーを煽る。彼は言う。みんなに優しくされればされるほど孤独を感じる。昔から変わらない刹那い気持ちが甦るのだ。舞台はいつも孤独なものだ。
華やかに舞台の幕が上がり長年繰り返し演じた演目と温めていたスケッチを全力でやり遂げるカルヴェロ。最初は仕込みであった観客も往年の笑い芸に盛大に歓喜し拍手の嵐が鳴り止まない。オーナーはカルヴェロのアンコールを指示。カルヴェロと共演者はミュージック・スケッチショーを演じる。その演技は全盛期の輝きにも引けを取らない珠玉の輝きに満ち溢れていた。その瞬間はあの栄光の日々が甦っていた。カルヴェロのバイオリンソロと共演者の奏でるアクロバティックな演奏共演後勢い余ってオーケストラピットのドラムに落下。前もっての段取り通りのギャグであった。ドラムに嵌ったままの挨拶もありのままの観客への本当の別れの挨拶であったが観客は意に介せず笑い続ける。
舞台裏では大変な事態になっていた。落下のショックで背骨を痛めもう立ち上がる事さえできなくなっているカルヴェロ。心配するテレーズ。「私は老いた雑草だ。刈られるほど頭をもたげている。拍手を聞いたか?情けではない本気の拍手を。昔のままだ。二人で世界を巡る。君のバレエと俺のスケッチ。心臓と心。何という問題だろう!」テレーズの出演の時が迫り来る。舞台へ向かうテレーズ。
劇場に医者が到着して状況を確認する。「先生。私は死にます。だけど私はすでに何回も死んでいます。もう痛みも感じない。テレーズは?彼女が踊るのを見たいー。」
華やかなバレエダンスを大舞台で踊るテレーズを幕裾から見守りながら息を引取るカルヴェロがいた。
⭐️5
【”老いた喜劇役者の若きバレリーナへの無償の献身”不朽の名曲「eternally」が流れる中、老いた喜劇役者がバレリーナを励まし彼女が舞台で踊る中、自身は息を引き取るラストは何度観ても嗚咽する作品。】
■これだけの名品であるので、内容は簡潔に記す。<Caution!内容に触れています。>
だが、今作を観ているとチャップリン演じる且つては名喜劇役者だったカルヴェロは、どう見てもチャップリンを想起させられる。
初めは、自殺を図った失意のバレリーナ、テリー(クレア・ブレーム)を自宅で休養させ、彼女に励ましの言葉を掛けながら看病するカルヴェロ。
彼は、傷心のテリーに様々な言葉を掛け勇気づけるが、一番印象的な言葉は”生きていく事は美しく素晴らしい。”と言う台詞であろう。
そして、バレリーナとしての素質を開花させていくテリーに対し、且つての栄光が遠ざかって行くカルヴェロとの対比。
それでもテリーは命の恩人であり、自身の人生の道を拓いてくれたカルヴェロへの思慕から、結婚して欲しいと願う。
だが、カルヴェロはテリーが貧しい店員だった時に健気に援助した音楽家を目指すネヴィル(シドニー・チャップリン:今作には、チャップリンの子供達が多数出演している。)が成功し、彼がテリーの事を想っている事を知り、静に身を引き大道芸人として暮らすのである。
そんな時に、偶然カルヴェロに再会したテリーは、もう一度彼を舞台に立たせるために手配し、カルヴェロも禁じていた酒を一杯呷り舞台に出て、蚤の芸や相棒(バスター・キートン:変わらず、無声を貫いている。)との息の合ったコンビ芸で場内を沸かすのである。
この時のチャップリンの片足がドンドン短くなって行く芸は、幼い時に観て強烈に印象に残っている。
そして、大技の舞台から転がり落ち、大太鼓の中に嵌るシーンで彼は心臓発作を起こし、舞台の袖で、メイン舞台で美しく舞うテリーの姿を見て、息を引き取るのである。
<今作は、チャールズ・チャップリンの原点回帰作であり、且つ集大成の一作である。
偉大なる喜劇王の数々の名作の中でも、哀愁を帯びながらも人間の善性を見事に謳いあげた作品であると、私は思います。>
どの場面にもどのセリフにも
チャールズチャップリン
その名前は、知っていたがほとんど作品を見た事がなかったので今作が初めての作品です。
希望を失ったバレリーナと落ち目になった喜劇役者の物語。
バレリーナの女性を励ます為に毎回いうセリフは、どれも心に響くものばかりだった。
意味なんてない幻想があるだけだ。
自分は、これがないとなんの価値もない?
そんな事は誰が決めたの?
意味ないって言ってもみんな同じじゃない。
自分がこうでありたいと思い続けているからそれになっていくだけ。
生も死も逃れる事の出来ない事
だからこそ少しよりももっと沢山生きてみよう。
チャップリンという人物を好きなる作品でした!
とても素晴らしかった
60歳の身体能力
生きる支えに。
やっぱりチャップリンっていいなぁ
テリーが美しい
老芸人カルヴェロは、自殺を図ったバレエダンサーのテリーを助け世話をした。カルヴェロに励まされ再び踊ることができるようになったテリーは、カルヴェロを愛するようになり、彼との幸せな結婚を夢見るが、カルヴェロに去られてしまった。さてどうなる、という話。
チャップリンの心境を反映させた作品との事だが、志村けんがダブってしまった。
志村けんも死ぬまでお笑い芸人だったなぁ、って思い、彼の笑いに通じるものがあり、チャップリンを尊敬していたんだろうなぁ、とこの作品を観てあらためて感じた。
チャップリンは撮影時には還暦過ぎていただろうに、動きが若いのも驚きだった。
それと、テリー役のクレア・ブルームがとにかく美しく可愛かった。
新星への眼差し、突き放し方に愛を感じる。
退屈な会話や平凡な喜劇が続いただけでした
『私は大道芸人です。それが好きなんです』
『年をとれば命がおしくなる』
『なぜ?』
『生きていることが習慣になるから』
『希望がなくとも?』
『素晴らしい瞬間はいくらでもある。私は死と戦った。君は幸せのため戦うんだ』
『私はここを出ていく。ここにいれば、自分を苦しめるだけだ。残された人生で真実を掴みたい。それが希望だ。それと少々の誇りが』と言いつつ、
『私は大道芸人です。それが好きなんです』と言っている。そして、
『シラノだ。鼻はないがね』と付け加える。
初見は50年くらい前、今日は50年ぶりで二回目の鑑賞だと思う。(3回目かなぁ?)
初見の時、こんなに良い映画とは思わなかった。今、この映画の良さが分かると思う。理解出来るのは嬉しいが、やがて、僕には死が訪れる。それが僕は悲しい。しかし、それが、今実感出来る事が嬉しい。
初見時は、プライドだけで生きるエロじじいの独りよがりって思っていた。加えて、バスター・キートンが添え物の様になっているのが気になった。昔の流行語『あんたは偉い!チャップリン!』と皮肉たっぷりに思った。勿論、劇中劇も面白くなかった。今日の鑑賞でも、彼等の演技には笑えなかった。やはり、映画の中で笑う鑑賞者は、サクラだと思った。50年経って二回目の鑑賞でも、僕の気持ちは変わらなかった。がしかし、実によく泣けた。笑えなかったが、泣けた。そして、チャップリンはそこを表現したかったのでは、と僕の気持ちは落ち着いた。やっぱり、傑作である。
昔の映画は長回しで、きちんとしたバレエを見せる。昨今のダンスはカットを多用して、芸術を加工している。そんなミュージカルが多いと感じ、僕はそんなミュージカルが好きになれない。
男目線のアナクロな表現だが、未だにこんなギャグしか生まれていない事を、悲しむべきかなぁと思った。状況は『男は○らいよ』なのに、チャップリンはこの一作で主人公を殺して終わる。『潔い良い事、風のごとし』一方、『男○つらいよ』は50作も続く。
『街の灯』『モダンタイムス』『ライムライト』は全て『女性を助ける』と言ったテーマがあるようですが、それぞれのパターンがあります。だから、全て見ることをお勧めします。順番は好みですが、『ライムライト』は年をとって見ると実感がわきます。
チャップリンなめてました
テリーのテーマが素晴らしい
テーマ曲もチャップリンの作品だとか。才能ある人は何でもできるんですね。この映画の一番素晴らしいところです。
内容もまずまずなんですが、踊り子とチャップリンの恋が不自然で、ちょっと感情移入しづらい。映画もちょっと長すぎるし、一時間半ぐらいに編集したい感じ。
笑えるところが全くなかったのは、チャップリンの意図したところなのか、それとも才能の枯渇なのか。「街の灯」が素晴らしかったのは、笑いとセットだったからかも。
トーキーになって、饒舌なチャップリンもイメージと違った。サイレントのほうがいい。チャップリンのセリフが好きな人もいるみたいで、申し訳ないんですが。言葉なしに全てを表現するチャップリンがやはり好きです。
映画館で初めて泣いた作品
当時中学生だった時にリバイバル公開され、学校から団体鑑賞しました。テリーが歩けるようになったところで泣いてしまったため、当時は映画慣れしていなくて、映画の長さについていけず間延びしたような感想を抱きました(今、観ると全く違います)。
テリー役のクレア・ブルームの演技がもう少し上手ければ最高の作品になったであろうが、バレリーナの舞台は素晴らしい。ラストのバスター・キートンとの共演は見事でした。
当時の事情を知った後に観ると、カルヴェロはチャップリン自身を表現しているかのようで、彼の人生をそのまま映画にしたような気さえします。
チャップリン映画では珍しい
チャップリン映画で最後に彼が死んでしまうとは思わなかった。全体を通して流れる、哀愁を帯びたメロディーが心に残る、チャップリン映画では珍しい悲劇だった。 名作ではあると思うが、それ程チャップリンらしくない映画でもある。
今は落ちぶれているが、かつては喜劇王だった主人公のチャップリンの再起にかける物語と、彼が助けた自殺未遂の踊り子との恋の二つがテーマになっているが、どちらかに絞ったほうがよかったのではないか。それに、137分は長すぎる。最後のアンコールはカットしても良かったと思う。私だけかもしれないが、キートンとの共演のパントマイムもそれほど笑えるものでもなかった。しかも、客に受けているのかどうか客の笑い声がほとんど聞こえなかったのも(客の反応シーンもない)、カットしてもよかったのではないかと言う理由の一つ。
最後の舞台でかつてのような笑いを取り戻せた主人公は結局死んでしまうし、踊り子との恋は、作曲家の出現によって、彼女が本当に好きなのはどっちなのか、口ではチャップリンを愛していると言っているが、実際には本音がわからないままで終わってしまったのはちょっと消化不良気味だ。
ただ、私がこの映画を気にいっているのは上記の2つのテーマではなく、自殺未遂後、生きていても意味がないと言う踊り子に、生きる意味を色々と説教する含蓄のある言葉に感動した点である。
なお、踊り子役はクレア・ブルームで、最近では「英国王のスピーチ」にも出ていた。チャップリンと共演した俳優が、まだ存命と言うのも何か不思議な感じもする。(2021年6月現在90歳)
チャップリン
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