ライフ・イズ・ビューティフルのレビュー・感想・評価
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イタリア映画、愛が溢れている映画。
グイド(ロベルト・ペニーニ)がドーラ(ニコレッタ・ブラスキ)に一目惚れ、猛アタックして結婚。
そして、息子ジョズエが可愛くて愛おしくて堪らない。
ある日突然、収容所での生活が始まる。
ロベルト・ペニーニの魅力があってこその映画ではないかと思う。
初めて観た時、笑って泣いて、泣き過ぎて頭が痛くて、暫く立ち直れないほど、忘れられない映画。
その後、この映画を観て、こんな人と結婚したいと結婚相手を決めた知人の話を聞いた。
映画は人生を変えてしまうのかと驚き、その対象として見ていなかった自分にも変化があった。
今回、久しぶりに映画館でリバイバル上映を観た。
こんなにも愛され愛した人生は幸せなのだろうと思い、辛く悲しい涙の記憶が、愛おしい愛情を感じて涙した。
言葉では表現しきれ無い、映画を観て感じる愛。
イタリアに行った事は無い、映画から知るイタリアを好きになる、感動する映画。
家族、子供を守る人生の美しさを描いた映画
アカデミー賞のスピーチ
チャップリン
ラストが本当に惜しい
前後半での明暗展開に魅せられました。
ロベルト・ベニーニ
グイドのしつこいくらいのアプローチにドーラが惹かれていくように、観ているこちらもロベルト・ベニーニのしつこい笑いにいつしか引き込まれてしまう。(最初はいやだったのに)
微笑ましい夫婦愛、親子愛に引き込まれたところで、一気に抗えない悲劇に。
子どもを怖がらせないように嘘をつき続ける、収容所でそんなに上手くいかないとはわかっていても、ロベルト・ベニーニのムービー・マジックに魅せられる。
泣かせにこないから泣かされる。
放送と音楽を使って生きていることをドーラに知らせるところは泣けました。
帽子、なぞなぞ、戦車、巧みな脚本
あっ、えっ、見せない。日本映画のようにダラダラとしたエピローグなし。潔い演出。
ロベルト・ベニーニのアカデミー賞受賞も納得。
授賞式で椅子に乗って立ち上がっていたロベルト・ベニーニの喜びようが忘れられない。
ライフ・イズ・ビューティフル!
楽しく哀しく幸せで怖くて温かく切ない
無口なイタリア人に会いたい
久々に観て笑って泣いてしんみりして
アレッツォに行ってしまいました
人の親として
楽天的なイタリアの雰囲気の中で進行する物語、しかし当初からファシスト的敬礼や黒シャツ隊など時代の不穏なアイテムが登場します。陽気な雰囲気のまま結婚、子供の誕生と進みますが気づけば周りはドイツ軍だらけ、主人公たちも強制収容所へ連行。ここで物語の核心となる嘘を主人公は子供につき続けるわけですが、個人的には実際のドイツ軍はここまで甘くはないだろうと思わせるシーンが多く、ちょっと作品に入り込めませんでした。
しかし、引き続き子供にうそをつくシーンで、「人を薪のように焼くなんてことはありえないだろう?」というセリフは現実に対する強烈な皮肉に聞こえました。最後まで子供に悲しい思いはさせまいとする姿は、人の親ならばそうだろうと納得です。
父親の姿に貫かれる
笑いのなかに涙が入り混じり、戦争の悲惨さも見事に描いた喜劇映画としては珠玉の名作ですね。
『ダウン・バイ・ロー』(1986)、『ナイト・オン・ザ・プラネット』(1991)などジム・ジャームッシュ監督作の常連ロベルト・ベニーニが監督・脚本・主演を務め、第51回カンヌ国際映画祭で審査員グランプリ、第71回アカデミー賞で主演、作曲、外国語映画賞を受賞した珠玉の名作『ライフ・イズ・ビューティフル』(1997)が2週間限定のリバイバル上映。
『ライフ・イズ・ビューティフル』(1997年/117分)
第二次世界大戦前夜、1937年のイタリア。
ユダヤ系イタリア人のグイド(演:ロベルト・ベニーニ)は美しい小学校教師ドーラに一目惚れし、得意のユーモアと当意即妙な猛烈アプローチで、彼女と駆け落ち同然でようやく結婚、愛息ジョズエを授かり幸せな日々を過ごす。
ジョズエに物心が付いた頃、ユダヤ人迫害の嵐がイタリアにも吹き荒れ、叔父、グイド、ジョズエ、そして彼らの後を追ったドーラも強制収容所に連行させる。
ジョズエを怖がらせまいと、グイドは得意の機転を利かせて、「これは戦車の賞品がもらえるゲーム」だと優しい嘘をつく…。
作品はドーラを結ばれるまでの前半パートと、過酷な収容所生活の後半パートに2部構成。
前半はとにかくグイドの陽気で破天荒なドタバタコメディをチャップリン映画のようにこれでもかとくどいほど徹底的に強調。
逆に前半の圧倒的な明るさが、後半の陰鬱な収容所とのより強い対比、濃淡を生み出し、本作をより印象深くさせています。数々の伏線回収も見事です。
最後まで家族を守るため、愛息の前では陽気に振る舞い、嘘を突きとおし、死期が迫る直前まで気丈に陽気に振る舞うグイドの姿は涙なしでは見られません。
笑いのなかに涙が入り混じり、戦争の悲惨さも見事に描いた喜劇映画としては珠玉の名作ですね。
イタリアと日本の共通項ーー戦争の悲劇性を伝える寓話
1998年公開のこの映画、観たことがあるような気がしていたのだけれど、今回観てみて間違いなく初見だった。
公開当時、評判になったし、その後も配信や再映などでよく目にした名画だから、どうやら観た気になってしまったらしい。
以下は映画のレビューというより、私自身の鑑賞体験とそこから考えたことのメモになってしまいそうだが書いてみたい。
監督・主演のロベルト・ベニーニはコメディアンでもあり、序盤からマシンガントークで喋りまくる。雰囲気は面白げなのだが、今一つ笑えない。
予告編などでこの雰囲気を見て、苦手なタイプのコメディだと敬遠していたのが、未見の理由だったのかもしれない。イタリアだとこの前半、爆笑となるのだろうか。
しかし、この多幸感あふれるコメディ的世界も、後半のイタリアにおけるユダヤ人迫害(ホロコーストの一部として位置づけられるのだろう)に移ると、失われた過去の幸せな記憶へと意味を変えることになる。
妻と子どもと共に収容された主人公は、ここで息子と妻に希望の物語を語る人物になる。別々に収容された妻には、収容所の放送マイクの隙を見てメッセージを伝え、またレコードで思い出の曲を大音響で流す。そして幼い息子には「これは壮大なゲームなんだ」という虚構の物語を語り続け、それを信じ通させる。
この物語は創作だそうだが、同時期に実際に収容所に入れられていた心理学者フランクルを思い出す。
彼は収容所で「希望を持つ人は生き延び、希望を失う人は死んでいく」ことを観察し、人生の意味を問うロゴセラピーを完成させた。『夜と霧』はその体験記録であり古典的名著だ。私自身もこの本の視点に何度も救われたと思っている。
この映画の主人公はまさにロゴセラピーの実践者のように、妻と息子に「意味ある生の物語」を伝え続け、同時にその献身的な態度によって自らの生に強い意味を与えていた。
この映画は公開当時、ホロコースト描写が軽すぎるなど賛否両論だったという。確かに寓話的な世界観で、ホロコーストは悪夢の中の壁画のような表現でマイルドに描かれる。
ここでリアルを徹底すれば、同じイタリア人の中に加害者と被害者を描かざるを得なくなり、それを避けたかったのかもしれないと感じた。
そして考えてしまうのは、日本との比較だ。日本もまた敗戦国として、戦争の物語を主に「悲劇の物語(原爆や大空襲、特攻)」として語ってきた。
戦争全体を見れば加害も被害も入り混じるのに、それでは意味ある物語になりにくい。勝者は偉大な達成の物語を語れるが、敗者はそうはいかない。だからこそ、戦後80年を経た今も日本もイタリアも「悲劇の物語」として戦争を語り続けるのではないか。
そして他国から加害責任を問われるたびに、さらに悲劇の物語で自らを支えざるを得なくなる。悲観的で皮肉な見方かもしれないが、戦後生まれとして当事者でないという思いが僕の中にあるからか、そんな風に感じられた。
とても美しく、悲劇的で、だからこそ強い印象を残す映画だった。寓話としての力と、歴史的現実の複雑さ、その両方を考えさせられる鑑賞体験となった。
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