「イタリアと日本の共通項ーー戦争の悲劇性を伝える寓話」ライフ・イズ・ビューティフル ノンタさんの映画レビュー(感想・評価)
イタリアと日本の共通項ーー戦争の悲劇性を伝える寓話
1998年公開のこの映画、観たことがあるような気がしていたのだけれど、今回観てみて間違いなく初見だった。
公開当時、評判になったし、その後も配信や再映などでよく目にした名画だから、どうやら観た気になってしまったらしい。
以下は映画のレビューというより、私自身の鑑賞体験とそこから考えたことのメモになってしまいそうだが書いてみたい。
監督・主演のロベルト・ベニーニはコメディアンでもあり、序盤からマシンガントークで喋りまくる。雰囲気は面白げなのだが、今一つ笑えない。
予告編などでこの雰囲気を見て、苦手なタイプのコメディだと敬遠していたのが、未見の理由だったのかもしれない。イタリアだとこの前半、爆笑となるのだろうか。
しかし、この多幸感あふれるコメディ的世界も、後半のイタリアにおけるユダヤ人迫害(ホロコーストの一部として位置づけられるのだろう)に移ると、失われた過去の幸せな記憶へと意味を変えることになる。
妻と子どもと共に収容された主人公は、ここで息子と妻に希望の物語を語る人物になる。別々に収容された妻には、収容所の放送マイクの隙を見てメッセージを伝え、またレコードで思い出の曲を大音響で流す。そして幼い息子には「これは壮大なゲームなんだ」という虚構の物語を語り続け、それを信じ通させる。
この物語は創作だそうだが、同時期に実際に収容所に入れられていた心理学者フランクルを思い出す。
彼は収容所で「希望を持つ人は生き延び、希望を失う人は死んでいく」ことを観察し、人生の意味を問うロゴセラピーを完成させた。『夜と霧』はその体験記録であり古典的名著だ。私自身もこの本の視点に何度も救われたと思っている。
この映画の主人公はまさにロゴセラピーの実践者のように、妻と息子に「意味ある生の物語」を伝え続け、同時にその献身的な態度によって自らの生に強い意味を与えていた。
この映画は公開当時、ホロコースト描写が軽すぎるなど賛否両論だったという。確かに寓話的な世界観で、ホロコーストは悪夢の中の壁画のような表現でマイルドに描かれる。
ここでリアルを徹底すれば、同じイタリア人の中に加害者と被害者を描かざるを得なくなり、それを避けたかったのかもしれないと感じた。
そして考えてしまうのは、日本との比較だ。日本もまた敗戦国として、戦争の物語を主に「悲劇の物語(原爆や大空襲、特攻)」として語ってきた。
戦争全体を見れば加害も被害も入り混じるのに、それでは意味ある物語になりにくい。勝者は偉大な達成の物語を語れるが、敗者はそうはいかない。だからこそ、戦後80年を経た今も日本もイタリアも「悲劇の物語」として戦争を語り続けるのではないか。
そして他国から加害責任を問われるたびに、さらに悲劇の物語で自らを支えざるを得なくなる。悲観的で皮肉な見方かもしれないが、戦後生まれとして当事者でないという思いが僕の中にあるからか、そんな風に感じられた。
とても美しく、悲劇的で、だからこそ強い印象を残す映画だった。寓話としての力と、歴史的現実の複雑さ、その両方を考えさせられる鑑賞体験となった。