劇場公開日 2024年11月8日

「ジャッロの鬼才アルジェントの輝けるデビュー作。映像ならではのトリックへのこだわり!」歓びの毒牙(きば) じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0ジャッロの鬼才アルジェントの輝けるデビュー作。映像ならではのトリックへのこだわり!

2024年11月13日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

敬愛するダリオ・アルジェントの動物三部作が、なんとまとめて劇場公開されるというので、さっそくまずは『歓びの毒牙』(これで、「よろこびのきば」と読む)にいってきた!
輝けるダリオ・アルジェントのデビュー作!!

こうやって久々に観返してみると、なんだか記憶していたよりもずいぶんとかっちり仕上がっているし、ふつうに「ジャッロ」(イタリア製の、猟奇的な殺人鬼の登場するスリラー/ミステリー映画の総称)として面白い出来で、けっこう感心しました(そしてちょっと安心したw)。

そりゃ、世紀の大傑作(僕の映画.comのオールタイム・ベスト5位w)『サスペリアPART2(プロフォンド・ロッソ/紅い深淵)』あたりと比べればだいぶ見劣りがするけど、同時期に作られていた凡百の量産型ジャッロや、アルジェント自身の手になる2000年以降のカスみたいな諸作品(泣)と比べれば、段違いにちゃんとできていて、才気煥発な新進ジャッロ監督――「イタリアのヒッチコック」と呼ばれていたころの彼の魅力をいかんなく堪能できる。

ファンの間ではよく知られている話だが、『歓びの毒牙』のメインプロットは、アメリカの著名なミステリー&SF作家であるフレデリック・ブラウンのサイコものの長編『通り魔(原題:Screaming Mimi)』から採られている。
ただここで注目すべきは、ダリオ・アルジェントが、原作の大筋とアイディアをなぞって映画を製作している点ではない。
真に重要なのは、本作における主人公の、とある「取り違い」「思い違い」を、「映像トリック」の一環としてアルジェントが認識している点だ。

ここでのメイン・トリックは、単に主人公の「錯誤(勘違い)」が重要なキーとして機能しているというだけではない。
「観客」も主人公と一緒に「目撃している」(=スクリーンに実際に映り込んでいる)シーンに、大きなヒントが隠されている、という点が重要なのだ。
この「映像ならではの伏線」という要素は、その後もアルジェントにとっての最大のこだわりポイントとなっていく。
内容を取り違えてしまうと、意味が反転してしまうような重大な「見間違い」。
それを、主人公と一緒に「観客も」犯してしまうから、事件の犯人がいつまでたってもわからない。

本作の冒頭と後半で二度までも試された「実は●●していたのはAではなくてBだった」という取り違えの映像トリックは、ほぼそのまま、『サスペリアPART2』の冒頭のシークエンス(幼少時の回想シーンのダブルミーニング)へと援用される。

さらには、本作における「観客も主人公と一緒に目撃した殺人現場のシークエンスにとんでもないものが映り込んでいる」という趣向にさらに磨きをかけたのが、あの『サスペリアPART2』の誇る、「主人公が殺人現場で思い切り●●を見ていて、観客もそれを目にしているのに、ラストまで誰もそれに気づかない」という映画史上屈指の大ネタである(ちなみに、その直前にある「主人公が惨劇を目撃するが、ガラス越しのせいで手を出せない」という設定も、『歓びの毒牙』のヴァリエイションだろう)。

この「惨劇に居合わせた主人公が何かを目にした気がしてならないのに、それが何だったかを思い出せない」というネタは、その後のダリオ・アルジェント映画で幾度も繰り返されることになる。その最終形態として、あの『トラウマ/鮮血の叫び』(93)に出てくる爆笑必至のおバカ映像トリックが待っているわけだ。
ヴァリエイションとして、「耳にした音の正体がわからない」というパターンもあり、これはまさに本作における「クリスタルの羽をもつ鳥」の声であり、その後このネタは『スリープレス(2001)』における、犯人指摘の決め手となる「●●の音」に引き継がれる。

世の中で思われている以上に、ダリオ・アルジェントという人物は、実は「ミステリー」に対する思い入れの強い監督なのである。
のちに『サスペリア』(77)や『インフェルノ』(80)を撮ったり、『ゾンビ』(78)や『デモンズ』(85~)の製作にかかわったりしたことで、ホラー監督としてのイメージが随分と強くなってしまっているが、初期動物三部作「だけ」を観て、この監督を「ホラー監督」と呼ぶ人は、実はそんなにいないはずだと思う。彼が初期のキャリアにおいて目指していたのは、あくまで「ぞっとするようなサスペンス/スリラー/パズラー」映画の創出だった。
実際、当時の日本で、この人はイタリア製「残酷サスペンス」ないしは「猟奇スリラー」の監督として喧伝されていたし(要するに「ジャッロ」の監督ですね)、「イタリアのヒッチコック」という通り名で宣伝がなされていたのである。

とにかく円熟期のアルジェントが、どのジャッロ映画においても「いちばん怪しくなさそうな犯人」の類型を投入しようと力を入れてきたのは確かだ。
『歓びの毒牙』では、皆さんもご覧になったとおりの犯人設定がなされている。
『サスペリアPART2』の犯人像も、初見で結構驚いた人は多かったのではないだろうか。
この一連の「意外な犯人」ものの極北に位置するのが、『シャドー』(82)であることは誰しも認めるところだろうが、『フェノミナ』(85)の犯人像もまた、実は本格ミステリー界では古典的な「犯人は実は●●」の類型に則っている点は見逃せない。『オペラ座 血の喝采』(87)の犯人像も、とある「意外な犯人」の類型を継承しているといえる。

だから、アルジェントが「ハウダニット」ばかりに注力してきた監督だという一部の見解については、僕はつねづね誤解だと思ってきたし、20年以上前から、それについては折にふれて主張してきた。
彼は間違いなく「フーダニット」に力を入れ続けた監督であるし、同時に「映像でしかなしえない大トリック」を常に志向してきた監督でもある。
その頂点に君臨するのが『サスペリアPART2』なのはおよそ論を俟たないにしても、『歓びの毒牙』もまた、それに準ずるくらいには「フーダニット」と「映像トリック」への情熱と野心に満ちあふれた、愛すべき佳品だといえる。
デビュー作には作家とすべてがつまっている、とはよく言ったものだ。

― - - -

以下、細部に関して箇条書きにて。

●僕の持っているDVDも、今回上映されたヴァージョンもイタリア語版だったが、口の動きを見るかぎり、多くのイタリア娯楽映画同様、もともとの演技も録音も明らかに英語で行われていて、それがイタリア人俳優によって吹き替えられている。考えてみると、トニー・ムサンテ演じる作家サムも、恋人のジュリアも、アメリカ人&イギリス人なわけで、英語バージョンのほうが内容的にはしっくりくるかもしれない。

●冒頭いきなり、黒皮の手袋を装着した殺人鬼が、タイプライターで人殺しの計画を練り、赤い布の上に鋭利かつ大振りのナイフを並べて悦に入るシーンが出てきて、このへんは「まさにアルジェント」といった感じで、心がふるえる。

●鳥のはく製で埋め尽くされた博物館で始まるシークエンスに、アルフレッド・ヒッチコック監督への限りない敬慕と心からのオマージュを感じるのは僕だけか(鳥フォビアだったヒッチコックの代表作が『鳥』(60))。それと個人的に、モニカの夫で画廊主のアルベルトを演じるウンベルト・ラーホにも、アンソニー・パーキンス(『サイコ』(60)の主演)の面影を感じる。ちなみに、イエロージャケットの殺し屋を演じているレジー・ナルダーは、ヒッチコックの『知りすぎた男』(56)で登場する殺し屋役の俳優さんである。

●犯人視点でつきまとう執拗な一人称カメラと、偏執的な窃視感覚。
海外から来た異邦人が殺人事件に巻き込まれる際のよるべない感覚。
外の暗闇からガラス越しに見える明るい屋内のE・ホッパー的光景。
薄気味の悪い現代芸術や古典彫刻、怪しげな美術作品の取り合わせ。
鋭利なナイフやかみそりによる残酷でスタイリッシュな襲撃シーン。
事件の真相につらなる奇怪な殺人シーンを描いた素朴派っぽい絵画。
ドアを突き破り穴を穿ちながら侵入してくる凶器に対する先端恐怖。
犯人の抱えるトラウマと被虐から加虐へと逆転/反転するプロセス。
機械的な処理で音をいじった「声」による殺人鬼の脅迫と殺人予告。
……『歓びの毒牙』を構成する要素のほとんどに、まさに「これからのアルジェント」の萌芽が見られるのにはマジで興奮する。デビュー当時に「アルジェントらしさ」のすべてがすでに確立されているというのは、まあまあすごい。

●犯人のトラウマを刺激して殺人衝動を引き起こす重要なアイテムとして登場する素朴派風の絵画は、明らかに16世紀ブラバントの画家ピーテル・ブリューゲルの『雪中の狩人』を意識した画面となっている(あとは同画家の『幼児虐殺』とか)。ころっとした人体把握や構図どり、画風に似合わない残酷さも、おそらくならブリューゲルを模倣したものだ。

●犯人の所在を示す重要なカギとして登場する「クリスタルの羽をもつ鳥」は、映像で確認するかぎり、どこからどう見てもカンムリヅルである(笑)。映画のなかでは、シベリアだかコーカサスだかの鳥だと説明していたかと思うが、実際にはアフリカの鳥で、ナイジェリアの国鳥である。声も映画で出てくる機械音とは似ても似つかないもので、どちらかというとアシカのような声で「おうおう」と鳴く。すなわち、本作に登場する、タイトルの元ともなっている鳥は、カンムリヅルの姿を借りたまったくの「架空の存在」ということになる。

●その他、サブキャラとして、明らかに男色家らしい美術店主、癖の強い吃音の男、ボクサー崩れの殺し屋、言動が奇矯な割に妙に優秀な情報屋など、多士済々の奇人変人が次々と登場するのが実に楽しい。極め付きが、一階を封鎖して二階から梯子を下ろすことで客を招き入れる、世捨て人の変人画家だろう。うーん、なんてかわいそうな猫ちゃんたち……。

●主人公の恋人が襲撃されるシーンの執念深さと粘っこさは、いかにもアルジェントらしくて素晴らしい(『サスペリア』でのサラ殺害シーンを想起させる)。あと、エレベーターと思しき青い空間で少女が殺されるくだりも、デ・パルマ『殺しのドレス』(80)を彷彿させる先駆的名シーン。三角構造の螺旋階段とか、バロック期の画家ラ・トゥールを意識したライティングにもしびれる。

●ラストあたりの展開がすべて成り行きか、他者による推理の結果となっていて、「探偵役による自発的な推理」があまり見られないのは残念な気もする。
「先入観からの思い違い」「ずっと抱いてきた違和感」の正体が判明するのも、「真犯人が姿を現してから」で、そのあたり、しょうじきもう少しなんとかならなかったのかな、と思う。最後に助けてもらえるのも、恋人の機転があったからで、本人はあの時点で完全に死に体だったし……。
このあたりのがっかり感や、犯人確保以降の説明シーンの蛇足感などが、のちの『サスペリアPART2』で見事に解消されているのは、さすがである。

●主人公を演じるトニー・ムサンテの顔立ちになんとなく既視感があったのだが、なんのことはない、オリエンタルラジオの藤森でした(笑)。

●最後にエンニオ・モリコーネの音楽について。ダリオ・アルジェントといえばゴブリンの音楽と相場が決まっているが、実は初期の動物三部作ではエンニオ・モリコーネが音楽を担当していた。あえてメロディアスな旋律や民族的なリズムを封印して、サンプリング主体で構築された不穏な音楽は、モリコーネにとっても新機軸に開眼する契機となった。
一方で、ここで試された、子守歌のようなスキャットや、うめき声、悲鳴などを楽曲のなかに散りばめるサンプリング手法は、『サスペリアPART2』以降の、ゴブリンによるプログレ調の音楽においても継承され、アルジェント映画の音楽の特徴となった。

なんにせよ、ジャッロの典型作としても、アルジェント世界の原点としても、映像系本格ミステリーの初期の試みとしても、決して見逃せない快作である。
ぜひ、みなさんも機会があったらご覧いただきたい。

じゃい