欲望の翼のレビュー・感想・評価
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地上に降りる影
ウォン・カーウァイ監督作品。
売り子のスー(マギー・チャン)が、一時は恋仲になるヨディ(レスリー・チャン)に言われる「夢で会おう」という言葉から、眠れず闇夜を彷徨うこととは対照的に、映像美によりまどろみへ誘われるそんな素晴らしい作品でした。
ヨディが口にする「脚のない鳥は飛び続け、疲れたら風の中で眠り、生涯で1度だけ地上に降りる。それが最後の時」は本当に重要なセリフだ。
本作は、ヨディを中心とした若者の恋愛模様を描いた群像劇である。彼/彼女らは、「愛されたい」「自分のものにしたい」そんな欲望を翼にして恋路を飛行する。その飛行はどこまでも遠く高くいけそうである。しかし地上を見下ろせば、別れや死の影が必然的につき纏っているのである。
マギー・チャンがとにかく好きだし、トニー・レオンの登場には驚いた。
『花様年華』を観直したくなりました。
ウォン・カーウァイの作風が確立された傑作
ウォン・カーウァイの監督第2作で、カーウァイの名前を初めて知った作品。邦題とポスターデザインのかっこよさにしびれて、直感的に「ぜひ観たい」と思ったんだが、当時僕の住んでた地方はその地方一の大都会だったにも関わらず劇場公開がされなかった上に、ビデオもなぜかレンタルビデオ店に置かれず……。東京の友人の家に遊びに行った時にレンタル店にあるのを見つけてうらやましいと思ったことを覚えている。その後、実家のある中小都市に帰った後、『恋する惑星』の大ヒットに伴い、ビデオが低価格再発売されてレンタル店にも置かれたため、ようやく観ることができた。その後になって地元映画館でも何度か上映されている。
映画は非常に素晴らしかった。映画の文法そのものを大幅に解体し、脚本を無視した明確な起承転結を持たない構成、説明描写よりも作品の空気や雰囲気を重視して観客の想像に委ねるスタイル、撮影監督のクリストファー・ドイルによるスタイリッシュな映像、マヌエル・プイグや村上春樹などの文学作品から影響を受けた詩的なモノローグとラテン音楽の多用、誰もが誰かに片想いという恋愛群像劇など、カーウァイ独自の作風がこの映画で確立している。
レスリー・チャン、マギー・チャン、カリーナ・ラウ、アンディ・ラウ、ジャッキー・チュン、トニー・レオンなどといった大スターの共演も後々まで続くカーウァイ映画の特徴だ。当時の香港映画界は娯楽映画一辺倒で彼らの演じる役柄は良くも悪くも非常に類型的なものばかりだったが、そんな中でカーウァイは脚本家出身でありながら脚本を無視して即興的な演出と編集で彼らの個性に合わせた役柄を創造していったのがとても新鮮に感じられた。実際、僕はこの映画を初めて観た時に、彼らは初めて彼ら自身にふさわしい役を演じ、一代の当たり役を得たと感じた。ただ、そういうある意味行き当たりばったりな作り方は製作を滞らせることもしばしばで、『楽園の瑕』や『2046』などのように完成まで3年も5年もかかってしまうことも多く、俳優側も大いに疲れるもののようだ。
もう1つのカーウァイ映画の特徴として、前記の通り劇中の恋愛のほとんどが成就しないというものがある。カーウァイ映画に出てくる恋愛はほとんどが片想いで、まれに両想いの場合もあるが、両想いの場合ですらその恋愛は成就しない。もっともそれはカーウァイ映画に限ったことではなく、日本や韓国を含めた東アジアの作品全体に当てはまることなのかもしれないが、カーウァイ映画では特にその傾向が強い。
個人的にはこの映画はカーウァイ映画の中でも1番の傑作で、低価格再発売VHSからDVD、そして4Kレストア版Blu-rayに買い換えて、今でも数年に1回は観返している。4Kレストア版で久しぶりに映画館で観れたのもとてもうれしかった。なお4Kレストア版ではVHSやDVDにはなかったマギーとアンディの1シーンが追加?復活?されていた。
この空気感に浸る
じめっとした部屋。汗、雨、闇。
けだるさ。
若い男女の恋愛模様。
台詞に意味はあっても、ストーリーは問題じゃない。
この映画が纏う空気感に浸れるかどうか。
汗ばむ部屋では投げやりになる。
雨に打たれれば自暴自棄になる。
夜道を歩けば打ち明け話もする。
継ぎ接ぎのようにつなぎ合わされた場面場面。どこかに自分も引っかかる場面がある。
そして、自分が何故マギー・チャンのことが好きなのか、この作品を観て分かった。とても個人的な過去の経験が呼び起こされた。
自堕落なのに女を惹きつけるレスリー・チャンの不思議な魅力とアンディ・ラウのキリッとした二枚目ぶり。
でも最後のトニー・レオンはずるいと思う。え、何?とぐっと身を乗り出して見入ってしまった。そしてやたらとタバコの箱をしまうのに笑ってしまった(笑う場面でないのに)。
もう今では絶対撮れない画。出せない空気感。
そしてまた、花様年華を観たいと思ってしまった(スーに会いたい)。
恋愛の連鎖
エモさにじみ出る名作映画
邦題をつけた人は天才
公開後にリリースされたレンタルビデオ(DVDではなくVHS)で鑑賞して以来、また観たいと思いつつも、レンタルビデオのラインナップになく、そのままになっていました。
冒頭のキザなセリフから、全体を通して昔のネガフィルムの様にグリーン掛かった映像まで、ものすごく印象に残っていましたが、ストーリーがどうなったのかは頭から飛んでしまっていました。
今回たまたまamazonプライムを見ていたら、ラインナップに追加されていたので、数十年振りの再観賞となりました。
それぞれの登場人物がそれぞれに悩みを抱えながらすれ違っていくストーリーには、改めて感銘を受けました。
それに加えて、欲望の翼という邦題をつけた人は天才だと思います。現代の阿飛正傳というのは意味が判らないのは当然として、英題のDays of Being Wildというのもごく普通な感じで、それのどこからこの邦題を思いついたのは奇跡だと思います。
この台詞、どこかで使いたいなぁ
本作品からスタイリッシュな映像美に激変
ブルース
レスリー・チャン!
ウォン・カーウァイが香港映画の枠を超えて世界から注目されるきっかけとなった作品を初見。
キザなセリフとモノローグの恋愛映画から、後半はフィルムノワール色が強まる。緑がかって、湿気を帯びたカメラ。ラテン調の音楽。長回しで濃密に迫りつつ、バサッと画面転換。確かにウォン・カーウァイ独自の持ち味が発揮されている。
しかし、何と言ってもこの作品の魅力は、レスリー・チャン!彼がいなかったら映像作品として成立しないと思えるほど。女性二人がなぜあれほど惚れ込むのかというのも、レスリー・チャンのあの眼差しで見つめられたから、としか言いようがない。
ところで、トニー・レオンが出てこないなと思ったら、突然の出現。本来は2部構成にしたかったそうだが、時間と予算の都合でこうなったとのこと。ただ、今作でのアンディ・ラウの役柄が、「恋する惑星」のトニー・レオンに繋がっていると考えると、面白い。
60年代の香港 哀愁に彩られた群像劇
緑
【”君との一分を忘れない・・。”死ぬまで欲望のままに飛ぶ、屈託した想いを抱える男を軸にした、スタイリッシュで虚無感が漂う、異色の香港青春映画。】
■実の母を知らず、心が通じない義母と暮らす屈託した想いを心に抱えて生きる男・ヨディ(レスリー・チャン)。
彼はサッカー場で働くスー(マギー・チャン)と恋仲になるが、堅実な関係を望む彼女の気持ちに応えられない。
一方、別れてもヨディを忘れられないスー。
夜間巡回中の警官・タイド(アンディ・ラウ)は、そんな彼女に徐々に想いを寄せていく。
◆感想
・全体的に、虚無感が漂う映画である。だが、その雰囲気の中に流れるラテンミュージックが印象的である。
・屈託した想いを心に抱えて生きる男・ヨディは、”一分は、短いが長い・・”等と、スーに声を掛け、あっと言う間に、彼女の心を惹きつけるシーンなどは、気障と言っても良い程である。
・ヨディは、スーと結婚する気などサラサラなく、別の女ミミ(カリーナ・ラウ)とも遊び半分で、付き合い始める。
<今作は、ウォン・カーウァイ監督のスタイリッシュ且つスノビズムが横溢している作品である。(ヨディが実の母に会いに行き、会って貰えず振り返りもせずに歩き去るシーンなど。)
ストーリー展開は粗い。
だが、不思議な魅力を湛える作品である。
ラスト、トニー・レオンが登場し、映画は終わるが、続編を考えていたのかな・・。
故レスリー・チャン、カリーナ・ラウ、マギー・チャン、ジャッキー・チュン、トニー・レオン、アンディ・ラウという、香港のスター勢揃いの作品でもある。>
プチストーカーだらけ
うら寂しい雰囲気が漂う卑屈な主人公と女性たち
花様年華のマギー・チャン、トニー・レオンが出演しているとあって見てみた。ストーリーとしては何かを抱え身勝手な主人公(レスリー・チャン)と、彼を愛する二人の女性の話であるが、主人公の生みの母捜しの段階から違う様相を呈してくる。
私には前半の恋愛映画としては、夜かビルの中、雨で、うら寂しい雰囲気が漂い、とても卑屈でこじれた感がある。女性たちの愛する気持ちは、どこから来るのか。それが伝わってこなかった。私には女性たちも現実を見てこの男と早くケリをつければいいのにと思ってしましました。
私の好きなラテン音楽がところどころで挿入され、主人公が一人ステップするシーンが良かったが、それ以上のものでなかったのが残念。男女で踊るわけではない。
後半の展開もそれほどのものではなかった。
Netflix
届かない思いばかり。 届かないと判っていても、諦めずに思い続けられ...
届かない思いばかり。
届かないと判っていても、諦めずに思い続けられるのは若さなのか。
惨めで、苦しくて、強い言葉で感情をぶつけあう。
そして縋り続ける。
それは残酷だ。
ヨディがたった一つだけ心から願い続けた思い。
その思いもまた純粋で残酷。
オープニングからクソが付く程の気障な台詞に苦々しく思いながらも、引き込まれていくウォン・カーウァイの世界。
他人を突き放し、残酷で我が儘な様でも、人は皆どこかで優しい。
憎めなくて、愛おしくなる。
亜熱帯の湿度の高い映像、ラテン音楽、60年代の空気、それらが調和した美しさ。
超超余談ですが、若い頃のマギー・チャンが出会った頃の妻にそっくりで。
この映画を観て2年後に妻と出会い、確かに似ているとは思っていたけれど、改めて観てちょっと驚いて。
それで、尚更当時の思いを重ねてしまったという、超超余談です。
脚のない鳥
BBCが2016年に企画した「21世紀の偉大な映画ベスト100」の2位に花様年華が入っていた。(1位がマルホランドドライブ、3位がゼアウィルビーブラッド)。名画100選のようなモノはよくあるし、たいてい定石に鼻白むだけだが、この選は、2000年以降の縛りに加えて、世界じゅうの映画批評家が選んでいることから、他にはない固有性があって、興味深いものだった。
個人てきには、ウォンカーウェイを、すごく好きなわけじゃない。
おそらく若いころは、もっと寄せていたと思うが、大人になり、歳をとると、様式ある表現方法に、まどろっこしさを感じるようになる。
わたしは、若いころは、フェリーニもタルコフスキーもアントニオーニもヴィスコンティもゴダールも、そのほか多数の巨匠を、興味をもって楽しく見たが、歳を食ったらもうアベンジャーズのほうが楽しい──わけである。
ただ欲望の翼は、若いころに見て、明解に覚えている。覚えている理由は、エピローグ直前の列車内の会話。レスリーチャンとアンディラウが話している。チャンが脚のない鳥の話をしようとすると、ラウがそれをさえぎって「知ってるさ、女には受ける話だろうよ、おまえが脚のない鳥のつもりか?おまえなんかただのゴミさ、なにが鳥だよ、鳥ならどっかへ飛んでけよ、さあいけよ早く」と言うのである。
要するに、映画内で、抒情というかポエムに落とそうとして、それを映画内で否定するわけ。
この局で、脚のない鳥のエピソードがさえぎられずに話されていたら、欲望の翼は凡庸に終わっていた、と思う。
映画のなかで、主人公が、印象的なことをモノローグ風に語ることがあります。数多の日本映画もそれが好きです。
そんなときのセリフは「脚のない鳥」のように象徴的で、現実的ではなくて、実用的でもなくて、ただ単に映画内のカッコいいセリフとして、ポエムのような位置づけになっているものです。
そんな主人公のセリフを「なに言ってんだ、アホかおまえ」と全否定している映画を、探してみてください。
わたしはこれ以外に見つけてません。
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