欲望(1966)のレビュー・感想・評価
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カウンターカルチャーの末路
本作をはじめて鑑賞した時は高尚な芸術作品なのかなぁとも思ったりもしたのだが、今回あらためて見直してみると、ポップカルチャーに対する巨匠アントニオーニの批判的な眼差しを感じたのである。坂元裕二は本作と同じようなテーマをラブストーリー(『花束みたいな恋をした』)の中におとし仕込んで見せていた。おそらくイタリア人巨匠アントニオーニも、60年代に起きたムーブメント“スウィンギング・ロンドン”を、ある傲慢で俗悪なカメラマン(デヴィッド・ヘミングス)の目を通して痛烈に批判している。
1960年代のロンドン。若き人気ファッション・カメラマンのトーマスは、ある日公園の原っぱで戯れる中年の紳士風の男と若い女のカップルを見かけ、彼らの行動を盗撮した。女はトーマスが自分達の写真を撮っていたのに気づき、ネガフィルムを渡すように懇願してきたが、いつのまにか一緒にいた男が消えたのを見るや否や、駆け出し去っていった。
Wikipediaより
自分の撮影スタジオでカメラを構えながらブロンドモデル(ヴェルーシュカ)に指示を出す姿を観て、私は『ロスト・イン・トランスレーション』で、映画俳優役のビル・マーレイに横柄な態度を示す日本人ディレクター(ダイヤモンドユカイ)を思い出した。実はこの映画、イタリア系アメリカ人ソフィア・コッポラのアジア人蔑視感情が無意識の内に表出している作品でもあり、昭和生まれの私なんぞは非常に不愉快な気分にさせられるのである。
1972年毛沢東の妻江青に招かれてアントニオーニが文革ドキュメンタリーを撮らされたことを御存知だろうか。作品中中共にとって不都合な描写が含まれていたため、30年間上映禁止のおとがめを食らっていた問題作である。だからイタリア人に人種差別的傾向があるといいたいわけではさらさらないのだが、アントニオーニもソフィア・コッポラも、他国の文化や芸術を下に観がちなイタリア系ならではのプライドの高さを感じるのである。
偶然おさえた“不倫ショット”が実は計画殺人の動かぬ証拠であったことに、ロンドンの売れっ子カメラマンが後々気づくというサスペンスタッチのストーリー。はじめは「(殺人を未然に防いで)人の命を救った」と単純に喜んでいたカメラマンだったが、現像写真をさらに引き延ばしてみて(原題:BLOW-UP)はじめて、(ヴァネッサ・レッドグレイヴも一味の可能性が高い)計画殺人の手助けをしてしまった真実にたどり着くのである。(しかも無言の脅迫つきで)
友人である画家の恋人(サラ・マイルズ)=別居中の奥様?やエージェントの男から、「(殺人の瞬間を実際に)見たのか?」と尋ねられて「見ていない」と答えるカメラマン。つまり、“目には見えない真実”を描くのが芸術家だとするのならば、一時のムーブメントに乗っかってチャラついた生活を送っていたこのカメラマン(画像の荒い写真のような絵しか描けない画家や、ノリの悪いコンサート中イラついて🎸を叩きこわしたジェフ・ベックもまた)は浮気現場を押えるのが関の山で、まったくもって“芸術家”とはいえないのではないか。そんなアントニオーニの皮肉を感じないではいられないのである。
さらに付け加えるならば、真実に迫れば迫る(現像写真をBLOW UPすればする)ほど、社会的政治的批判(脅迫)が強くなり、抽象化せざる(画像が荒くならざる)を得ない映画表現の限界について、アントニオーニなりに考察した作品でもあるのだろう。よからぬ組織の盗聴をおそれ東洋人秘書への連絡をカー無線から公衆電話に切り替えたように、現在日本国内で真実が見えにくくなっている米騒動のような事象については、実際に自分の足で(殺人)現場に赴いて確認しに行く姿勢がやはり必要なのではないだろうか。遠方にみえる空港の着陸機数にまで拘ったという、ドキュメンタリー作家出身ならではの現場主義を是非見習いたいものである。
ラスト、カウンター・カルチャーのメタファーと思われる白塗り集団が、誰もいない公園のテニスコートでパントマイムに興じる様子をボンヤリと眺めるカメラマン。やがて集団の姿も視界から消え、聴こえていたテニスボールを打ち合う幻聴もいつの間にか止んでしまった。青々としげる芝生の上で、なんともいえないシニカルな笑みを浮かべるカメラマン。ゴミだ!俺も俺の撮った写真も、そしてあいつらも。最後は、ハービー・ハンコックのジャージーな劇伴とともにカメラマンの姿も消えてなくなってしまう。公表が差し控えられる真実とともに、似非芸術がすべからく表舞台からBLOW-UPされたように。
ヤードバーズのライブの場面が最高
アートだと思えば、まぁまぁ
不条理世界を描いた名作だのとの触れ込みがDVDに書いてあったので,...
不条理世界を描いた名作だのとの触れ込みがDVDに書いてあったので,さぞやどうしようもない状況に置かれた主人公が大爆死するんだろうと思っていたら,全然別の方向だった.しかし優れた映画だった.主人公は写真家として成功しているし,ポストを欲しがる美女と性行為を楽しんでいるし,美術の収集にも余念がない.いくつかの不穏さは映し出されるけれど直接語られることもなく,ミステリのように進展した殺人事件についてもなすすべもなく終わってしまう.そして極めつけは最後のシーンで,何とは言えないけれどとてもしびれた.ボールを取りに行く演技をすることによって,空想の試合が現実のものになったのか.雑に解釈するなら,我々が現実だと思っていることも,空想の徒手空拳でしか過ぎないのであって殺人事件だとかいくつかのことは妄想でしかないとかそんなところだろうか.難解なシーンがいくつかあるけれど,構図やモノの特性を生かした映像美に魅せられて飽きることがなかった.
カメラを止めろ!
カメラは眼前の真実を切り取る。しかし切り取るという行為によって、切り取られた真実は延伸性を喪失する。こうなっていたかもしれない、という無数の可能性はあえなく途絶する。カメラの使い手は、あれほど渇望していたはずの真実にかえって首を絞められていることに気がつく。
いや、気がつくのならまだいいほうだ。ほとんどの者はそのことに考え至りさえしないのだから。彼らはカメラの絶対的権能を信じて疑わず、あたかもそこに収められた画像や映像だけが世界のすべてであるかのようにふんぞり返っている。そしてそういう傲慢な人々が写真や映画を創っている。
本作の主人公であるトーマス(彼はカメラマンだ)は、物語を通じてカメラの権能を、ひいては自己の認識を疑い始める。
最終シーンでは陽気な若者たちの集団が彼の前に現れ、パントマイムのテニスを始める。ラケットもボールもない、視線と身振りだけのテニスだ。しかしそこには確かにテニスが存在していた。目には見えずとも、そこには振り抜かれるラケットがあり、打ち返されるボールがあった。
不可視のボールはフェンスを越え、トーマスの足元に転がってくる。彼はそれを拾い上げ、コートの中に投げ返した。
カメラの権能が、あるいは自己の認識が干渉できる領域など、ほんの少ししか存在しない。
会社の金で趣味の映画を
フリオ・コルタサルを調べて、理解
1967年 イギリス/イタリア作品
アントニオーニ監督(脚本)が アルゼンチンのフリオ・コルタサルの短編小説「悪魔の涎」を元に 映画化
(この映画で 一躍、有名になった)
1960年代の 「スウィンギング ロンドン」と呼ばれる、ロンドンが世界のポップカルチャーの中心だった時代の雰囲気がわかる映画
(カメラマンは デビッド・ベイリーがモデル)
カメラマンが 映像に プラスαを求めてしまう、という仕事柄、被写体から物語を紡ぎ出してしまった… という話
(物語への「欲望」に とらわれてしまった)
現実と非現実の 交差する映像になっている
カメラワークは 見事
ちゃらけているようで、結構、
精力的に仕事をしているカメラマンを
デビッド・ヘミングスが好演している
(異世界に入っちゃいそう、でもある)
女優陣も サラ・マイルズ、ヴァネッサ・レッドグレイブ、ジェーン・バーキン(わからない!)と、豪華である
モデル達も 当時、一世風靡した連中
ヤードバーズも登場し、ジェフ・ベックが 監督の希望で ギターを壊している
(ベックとペイジの ツインリードは 貴重な映像らしい)
音楽は バービー・ハンコックが担当していて、展開に頭を捻りながらも 飽きさせはしない
(色々、豪華である)
「女(ファッション写真)は飽きた、旅に出たい」
というのは、カメラマンの本音で、
だから こんなことに?
編集者らしき人物が それを受けて
「自由だと、彼のようにか?」
と 見せた写真の人物は、コルタサルだろうか
邦題が 意味深過ぎて、かえって誤解を招く
(この監督の場合は 特に)原題どうりか それに近いものの方が よい
パントマイムのテニス
サスペンスはただの見せかけ
偶然撮った写真に殺人現場が写り込んでいて…という面白そうなサスペンスと思って観たら、おもいっきり肩透かしを食らった
112分の上映時間だか、ヒッチコックならきっちり90分以下にまとめてもっと面白くしかも完結させる
そう本作のサスペンスは尻切れトンボで終わってしまうのだ
つまりアントニオーニ監督に取ってはサスペンスなぞ、どうでも良いのだ
そんなのものを撮りたいのではない
本作で彼が撮りたかったのは1966年当時、世界的に注目され盛り上がったイギリスの若者文化のありさまなのだ
だから当時の若者の憧れをこれでもかと見せびらかすのだ
サスペンスには関係の無いシーンが延々と続く
ベントレーのコンバーチブルを乗り回す
若い売れっ子カメラマン
車には無線がついており秘書に連絡しては対応させる
美人のモデルは選り取りみどり
華やかなファッションシーン
ロンドン郊外のウインザー
そこにRicky Tickというロック界では世界的に超有名ライヴハウスがあり、そこにわざわざ主人公を意味もなく行かせる
当時の特に通に人気のバンド、ヤードバーズの演奏シーンを長々と登場させる
ジミーペイジ、ジェフベックという超人気ギタリストの演奏シーンだ
そして、お屋敷での若者達のドラッグパーティー
そんなのものはサスペンスには何の関係もない
パントマイムのエアテニスは
単に前衛劇団を登場させたかったのかも知れない
いや実は監督の種あかしかもしれない
映画はこれで終わるけど、サスペンスはエアテニスみたいなもんだ、気にするなということだ
つまり当時のイギリスの若者文化に関心が無ければ、本作は観る意味がない
ただ撮影は確かに美しい
写真スタジオのシーンの色彩感覚は良い
しかしそれだけのことだ
人生って夢といっても間違いではないと思う
1966年イギリス・イタリア合作映画。112分。今年19本目の作品。いままでたくさんの映画を観たと高をくくっていたら、実はそうでないと思い知らしめてくれる作品に出会える。そして純粋に人生が楽しくなる。本作はまさしくそんな作品となりました。
内容は;
1、ロンドンの売れっ子カメラマンは偶然散歩していた公園で気になるカップルを見つけ、隠れながら写真を撮る。
2、しかし、女性が気づき、お金をだすから写真をネガごと譲ってくれと言ってくる。
3、男は女に嘘をついて偽のネガを渡し、現像すると思わぬ犯行が写真に収められていた。
本作は一言で表すならサスペンス。しかし、作品自体にあるパワーはサスペンスを超えてシューリアルなものがあります。本作をわたくしは夜中の2時ころに観だしたのですが、眠気もふっとび一気に引き込まれました。
キューブリックの遺作「アイズ・ワイド・シャット」が好きな人なら本作は絶対に好きになれます。本作のサスペンスは、誰が犯人とか以前にわたくしたち人間の認識能力自体を見事に不安につるし上げています。
そこに作品全体のモチーフとなるカメラという媒体がすごく活きていて、二重にも三重にもテーマが活きています。この調和感がほんとに素晴らしく、観終わったあとの心の浮遊感は本物のアートを観た気分。
ミケランジェロ・アントニオーニ、すごい監督さんがいたものです。今まで知らなかったことが恥ずかしくなるくらい素晴らしい作品でした。
ちなみに原題は「Blow Up」で、業界用語で「現像」を意味するのだとか。それを知ると邦題はもっと工夫してほしかった。この題名だと、観たい人が限られると思いますから。
本作のふわふわ感を体験した次の日から日常が違った視点で見えました。
すごい映画です。
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