さらばアフリカのレビュー・感想・評価
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素晴らしい作品ですよ!
ヒューマントラスト渋谷さんの企画で、ヤコペッティ監督作品三本目の鑑賞です。
本作の存在は知りませんでした。残酷物語のイメージが強かったのと、その後ヤコペッティの名前を目にすることが減ったのでしょうね。記憶が定かじゃありません、遠過ぎて。
さて、本作。
残酷物語2本見てからと言うこともありましたが、ヤコペッティ監督の力を大いに見せつけられた気分です。衝撃的です。
前ニ作を見る限り、珍しいもの好きの面白いこと大好きな監督さんってイメージでしたが180度変わりました。
虚実おりまぜ、演出(ヤラセ?)も含まれるらしいですが、良い意味でそれがわからないのです。虚実の境界線が引けないほどの、衝撃的な映像の連続で。
当事者達に何らかの迎合、擦り寄りがなければ撮ることができないであろう映像ばかりです。これは演出のため?それともジャーナリズム精神?
なんとも、玉虫色の作品に仕上げたものです。天晴れです。
しかし、この作品はしっかりアフリカの国々の内政状況、人間の愚かな行為を知らしめる、訴える道に繋がっているので作品として大きな意味を持つと思います。
トロフィーハンティングの映像は、本当に直視できないほど。
現在もなお、このような狩猟が行われている事実を「ミアとホワイトライオン〜」で知るところとなったこともあり、そのダブルパンチでショックはより大きくなりました。
いやいや、1966年作品ですが、人間ってかくも変わらない生き物なんだな、、、。
MONDO CANE (犬の世界)、さすがですねヤコペッティ監督。CANE達は相変わらず地上最強の獣のままです。
はぁ〜
内容の濃い作品
グァルティエロ・ヤコペッティ監督のリバイバル上映作品である。アフリカのロケでカメラが捉えた現実が容赦のない映像で紹介される。これは本当に事実なのかと疑いながらの鑑賞となったが、銃殺やアラブ人の大虐殺の映像は、所謂アクション映画で登場するような派手なシーンとは正反対にとても地味な映像であり、おかげで真実味が増していた。
ヨーロッパが手を引いたあとのアフリカはまさにカオス状態だった。部族間の戦いは、初期は手製の武器を使っていたから、生々しいことこの上ない。手製の槍で動物を殺してきたのと同じように人間を殺す。残酷さが尋常ではない。
映像では殆ど映されないが、アフリカの残酷な現実の背景に浮かび上がるのはヨーロッパの商人の姿である。アフリカ人が象を狩って象牙を集めるのはそれが高く売れるからだ。買うのはヨーロッパの商人である。アフリカ人がアラブ人を集めて銃で処刑する。その銃を売るのはヨーロッパの武器商人である。
イギリスもフランスもアフリカを支配するのを諦め、アフリカを市場とし、資源の供給地とした。ヨーロッパ人が残った南アフリカ共和国では人種差別が続いているが、ヨーロッパ人が去った地域では土地と資源の支配をめぐって現在に至っても争いが絶えない。
本作品の撮影時点のアフリカは、土着信仰の未開の地であり、部族内では長老を頂点とするヒエラルキーがあり、食物摂取の優先順位がある。金やダイヤモンド、象牙などの資源の地であるほかに、サバンナはサファリ観光の地でもある。
かつての暗黒大陸は、急速に発展している地域と文明に取り残された地域がある。発展する地域では森林破壊が起きて地球温暖化の一員となっているが、先進国は森林破壊をして都市を築いた。アフリカだけが温暖化の責任を問われることはないという主張は一理ある。
鑑賞中に頭をフル回転させても追いつかないほど内容の濃い作品だったと思う。
魂をえぐるヤコペッティ節。『ミアとホワイトライオン』とこれが併映される衝撃に震えろ!
ヒューマントラストシネマ渋谷のヤコペッティ三本立て上映にて鑑賞。
うーむ、これは凄い。
最初の一時間ほどは、なんだこんなもんかと思って観ていたが、非道な動物虐待ショーとザンジバル虐殺のあたりから、良いも悪いも忘れてつい夢中になってしまった……。
なんていうか、これを『ミアとホワイトライオン』と同時上映してんの、ちょっとすごくない??(笑)
なにはともあれ、絵に力がある。
それが、きちんとした手順に従ったドキュメンタリーではなく、演出とヤラセだらけのモキュメンタリーだとしても、これだけの強度をもった映像で、「ある種の」アフリカの現実を突きつけているとすれば、十分に観る意味はあるだろうし、少なくとも『世界残酷物語』よりも、よほどシリアスで真摯なテーマを扱っているのはたしかだ。
われわれは知っている。
本作に先駆けて、フランスに『残酷大陸クワヘリ』(64)(原題は「さよなら、消えゆくアフリカ」の意)というおぞましいアフリカン・モンド映画の嚆矢が存在することも、このあと、ヤコペッティ門下や米仏の映画製作者の手で、アフリカのグロテスクな奇習や蛮習、性手術ばかりを集めた志の低いモンド映画があまた製作されたことも。
『知られざるアフリカ』(70)『残酷猟奇地帯』(71)『残酷裸の魔境/ブードゥー伝説』(73)『魔の獣人部落マジアヌーダ』(76)『魔界の大陸』(82)……。
これらの、アフリカ人を蔑み、見下し、その風習を好奇の目でもって観るショック系モンド・ホラーとヤコペッティの何が違うのか。
何も違わない、という意見ももちろんあるだろう。
きっと、ヤコペッティの本質が下世話で、拝金主義的で、差別主義的なものだろうということは、僕にも否定できない。
でも、自分はこれを観て、猛烈に心を動かされた。
それもまた、嘘偽りのない真実だ。
こんなにも、リアルで動物が次々と殺され、人が死ぬ映像を、観る機会なんてそうそうあるだろうか?
畜殺や、処刑は、いくら頭でイメージしたところで、実見しないと「命を奪う意味」の重大さを理解することは能わない。
自分は食用肉を忌避しないし、死刑廃止論者でもない。だからこそ、日ごろから、動物が殺されること、人が殺されることを意識し、常に脳裏に浮かべて生きていきたいと思う。
それでも、なかなか不条理で利己的な死を「生の映像」で見せてくれる機会はない。
『さらばアフリカ』には、それこそうんざりするくらいの動物の死と人間の死があふれかえっている。
理不尽で法外な死を、ただただ見せつけられる。
劇映画ではなく、モキュメンタリ―という文脈で。
間違いなく、それは善悪を超えて心を動かすし、心に傷を残す。
意味がない、ということは断じてない。
これを今の時代に撮ることは不可能だろう。
当時ですら、ヤコペッティは処刑シーンをフィルムに収めたことで、殺人教唆罪に問われたくらいだ。この映像を撮るためには、「殺すサイドに寄り添う」必要がどうしてもあるからだ(ザンジバル虐殺の空撮はぎりぎり「アリ」だが、こちらは壮大なヤラセ再現映像だとの意見が強い)。
特に、トロフィーハンターや原住民による野生動物虐殺の映像は、再現映像だとすればもうサイアクの極みだし、たとえリアルな取材だとしても、カメラは常に「ハンターサイドに置かれている」わけだから、「狩る側に金を払って撮らせてもらっている」ことになる。
道義的に、この撮影は今は許されないし、許したくもない。
でも。
「愉しみのために動物を殺す」人間は、嘘偽りなく現在進行形で存在する。
政治的信条や国家間の対立を理由に発生するジェノサイドもまた、現実にある問題だ。
フェイクでもインチキでもない、喫緊の、重大な、「今考えるべき」テーマだ。
僕は狩猟を全否定しないし、問題解決手段としての戦争も全否定しない。
それでも、実際に起きるそれが、どれほど残酷で、非人道的で、自らが関与すると思うだけで怖気を禁じ得ないものか、ということは、「この目に焼き付けておく」必要がある。
今、その映像は撮れない。
でも、それがここにパッケージとして存在している。『さらばアフリカ』という形で。
ならば、観よう。
目に焼き付けようではないか。
シマウマを両側からロープを張ったバイクで引き倒す非道を。
仔象をかばって立ち向かう母象を象撃ち銃でぶち殺す残虐を。
押収され、並べられた象牙の列が地平線まで続くさまを。
水路に追い込まれてなぶり殺しにされるカバの群れを。
獲物をしとめたトロフィーハンターの自慢げで満足げな笑みを。
そして、人間が、人間を処刑する、その瞬間を。
― ― -
ヤコペッティの演出・ヤラセを全く意に介しない撮影手法は揶揄されることが多い。
ただ、いざ観始めれば、これがいわゆる我々が考えるような「ドキュメンタリー」でないことは一目瞭然でわかるはずだ。
アオリでズームされる口。アップで笑う顔、顔、顔。
曲ピタのBGM。ロングショットの夕陽。
こんなん、まんま、マカロニ・ウエスタンの撮り方だ。
すべての画面は、綿密なコンテとプランに従って撮られている。
まるで撮って出しではない。計算されつくしている。
ひどい残酷ショーのあとには、風光明媚な海岸で美少女軍団がポンポン宙返りする頭のおかしいサーヴィスカットが入る。明らかにフレームの外にはトランポリンがあるはずだ。
とても、まともなドキュメンタリーではない。
でも、だからこそ胸にせまる部分もある。
きちんと「映画」として「しつらえられている」。
馬が走ると突然大音響で、西部劇風のテーマが鳴り響く。
象の眉間に銃弾が撃ち込まれるたびに、ドーンとフォルテシモの音塊が叩きつけられる。
ペリカンの優雅なダンスも完全な曲ピタで、ほとんど芸術的といっていいしあがりだ。
救出されたシマウマは、夕陽に向かってヘリで移送される。
荘厳で感動的な映像美。高鳴るオルトラーニ節! ……でもおそらく、このシーンは完全なヤラセであり、ただの動物虐待だ。
ヤコペッティのなかで、今起きていることか、撮るために今起こしていることかは、あまり重視されない。
こう撮ろう、と意図したとおりに撮ることが最優先される。
その意味で、本作は間違いなくモキュメンタリ―だ。
とはいえ、BBCの動物番組などでも、詳細なコンテとショットのプランはちゃんと存在する。
「その通りの映像が撮れるまではロケから帰ってこない」らしい。
どういう番組にするかの筋が、撮影する「前」からきちんとあって、「筋に合わせて」撮る。
そのあたりの感覚は、「撮れたものから番組を考える」日本とはまったく異なると、むかしNHKの動物番組ディレクターが言っていた。
ヤコペッティの手法は、そこからさらに一歩踏み込んだものだ、という言い方も可能だろう。
もちろん、そこはすでにグレーゾーンではなく、真っ黒けのダークネスなわけだが(笑)。
なんにせよ、僕はこの映画をとことん堪能した。
観終わって、ずっしり重たいものが心に残った。
そして、充足した。
たしかに、この映画には作り手の差別的な感覚が強固に付きまとっているし、撮影手法にも犯罪と不道徳の香りがぷんぷん漂う。
しかし僕は実際に観て、むしろ本作は、観客に社会正義と人間の愚かさについて深く考えさせる力のある映画だと思った。
少なくとも、「ヤラセだから」「ヤコペッティだから」「モンドだから」と馬鹿にして、切って捨てていいような映画でないことは断言できる。
これは、ひとつの「体験(エクスペリエンス)」だ。
皆さんにも、機会があればぜひご覧になることをおすすめする。
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