「見えない相貌」見えない恐怖 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
見えない相貌
サイコスリラーは夜という状況と相性がいい。殺人鬼が私を殺すかもしれないという主観的恐怖に、真っ暗な夜という客観的恐怖を意図的にダブらせることで受け手の恐怖が倍増するからだ。しかし本作はそうしたサイコスリラーの常道に自ら背を向ける。夜という視覚的な外連味を極力排し、主人公の感じる主観的恐怖だけを丁寧に描き出す。
主人公のミアは盲人、すなわち五感の中で最も権威的である視覚を封じられている。彼女の認識はもっぱら聴覚と感覚を通じて行われるため、健常な周囲の人々とはものごとの認識に大きなタイムラグがある。彼女にとってはサイドテーブルに並んだ瓶の中からワインを選び出すことさえ一苦労だ。恋人から馬をプレゼントされた際も、目の前に既に馬がいるというのに、実際に手を触れてみるまでそれを認識できない。
こうした一連の描写から、我々は彼女の置かれた状況の恐ろしさをなんとなく理解する。殺人鬼が彼女の前に現れたとして、彼女は往年のサイコスリラー映画の主人公たちのように、咄嗟の機転で物陰に隠れたりすることも、反撃を加えたりすることもできないのだ。
加えて本作が巧妙なのは、ミアの失明状態を受け手にも疑似的に体験させることで、ミアの感じる恐怖により深くコミットできるような仕掛けが施されていることだ。本作では星のマークがついたウエスタンブーツの男が殺人鬼なのだが、彼の相貌は最後まで判明しない。カメラは常に殺人鬼の脚部だけを映し出す。我々もまた、部分的にではあるがミアと類似の状況に置かれているわけだ。見えないということは恐ろしい。それは本作のリファレンス元であるスティーブン・スピルバーグ『激突!』に登場するあの身元不明のトラック運転手が証明している。
ミアと殺人鬼が繰り広げる白昼堂々の逃走劇には鬼気迫るものがある。殺人鬼が家の中にいることを知ったミアは家の外へ逃げ出そうとするが、途中で棚の上の電飾に衝突し大きな音を立ててしまう。普通のサイコスリラーであれば稚拙なギミックに過ぎない描写だが、目が見えないという彼女の窮状を鑑みれば、それが彼女のパニック具合を如実に表したものであることが窺える。家から飛び出たあとの描写にしても、普通であれば真っ先に隣の家に助けを求めに行けばいいものの、彼女は家の隣の馬小屋に身を潜める。感覚によって周囲の地理を把握している彼女にとっては、それが唯一の逃走線なのだ。
馬に乗って命からがら殺人鬼の魔の手を逃れたミアだったが、辿り着いたジプシーの村落でも一悶着が。ここではジプシーのジャックという男が殺人鬼であることが仄めかされる。ジャックの相貌がカメラに映し出されたとき、受け手はようやく真相が見えたことにひとときの安堵を覚えるが、ある程度勘の良い者は彼の脚部だけが映されていないことに気がつく。事実、彼は冤罪者であり、真実は再び闇の中へ。このときミアは息子が殺人鬼だと勘違いしたジャックの父親によって廃坑の小屋に閉じ込められてしまうのだが、盲人が周囲に何もない廃坑に放り出される恐怖は計り知れない。打ち捨てられた廃車を金属片で叩きながら「HELP」と叫び続ける彼女の心境は、さながら大洋の真ん中で旗を振り続ける海難者のそれに近かったに違いない。
以降の展開にはややドンチャンやりすぎな感じもあったが、主人公の主観的な恐怖だけに焦点を絞って丹念に描写を紡ぎ上げていく姿勢に概して好感の持てる一作だった。