「魔術師一座の表と裏を描き出すことで、『仮面ペルソナ』と通底するテーマを掘り下げてみせた傑作。」魔術師 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
魔術師一座の表と裏を描き出すことで、『仮面ペルソナ』と通底するテーマを掘り下げてみせた傑作。
おお、これは掛け値なしの傑作だ。マスターピース。
てか俺、ラストでまたあの「帰ってきた酔っ払い」が三たび登場して、「魔術師」たちの正体を反転させて(要するに替え玉の●●なんか無かったってオチで)、観客を恐怖のどん底に叩き込んで終わるって信じて観てたんだけど、ぜんぜんそんなことなかったよ(笑)。
ディクスン・カーの『火刑法廷』みたいで面白いと思ったんだが、ちょっとこっちの頭が本格ミステリ脳すぎたか……。
もう、霧にかすむ森を縫って馬車が進む冒頭のシーンから、あまりに美しすぎて泣きそうになる。
これにせよ、ブレッソンの『湖のランスロ』にせよ、美術史的な知識に裏打ちされた森と馬車の描写というのは、本当にすばらしい。
乗っているのは、いかにも魔術師然としたマックス・フォン・シドーと、男装の助手(実は奇術師の妻)イングリッド・チューリン、いかにも魔女といった風貌の婆さん(奇術師の祖母。蜷川幸雄とかテリー伊藤あたりによく似ている)、口上役の能弁な小太り男によって構成される、旅の奇術師一座だ。彼らは、森で死にかけているアル中の役者を拾ったあと、ストックホルムへと向かう。
街の領事に面会した一座は興行の許可を求めるが、領事と医師と警察署長の三バカコンビは、昼日中に彼らの目の前で演し物をリハーサルすることを条件として強要する。一座は、屈辱にまみれた「種明かし」ショーを権力者の前で披露させられることになるが、そこで行われた催眠術で、おそるべき事態が出来し……。
この映画が、「迷信」と「科学」、「生」と「死」の二項対立を描いた物語であることは、もちろん論を俟たない。
舞台となっている1846年――19世紀は、まさに「啓蒙の世紀」。
科学が、迷信と神秘もろとも、神をも駆逐しようとした時代だ。
そんな流れのなかで、「謎の解明」を娯楽として扱う推理小説が萌芽し、ポーとドイルによってひとつのジャンルへと引き上げられた。ホラーのジャンルでも、たとえばレ・ファニュの「緑茶」のように、霊の存在を心霊学的にとらえる風潮が強まってくる(心霊学やオカルティズムもれっきとした「科学」だということは、つい見逃されがちな観点だ)。
ただ、科学の力をもって神もろとも否定してしまうと、やがて必ず来たる「死」において、神が約束したはずの「恩寵」までが喪われてしまうことになる。
啓蒙の世紀は、「生」と「死」の概念をも、根本からパラダイムシフトするものだった。
死を前にして神の不在を嘆く、信心深いアル中の役者。
一方で「科学」サイドの医者は、魔術を認めでもしたら「神まで認めることになる」とのたまう。
ここで描かれているのは、19世紀という信仰と科学、闇と光が交錯した時代の、戯画的な「縮図」である。
同時に本作は、奇術師一座の「舞台裏」を描いた、いわゆるバックヤード物でもある。
すなわち、この奇術師一座には、映画製作者としてのベルイマン自身が投影されているとみて、まず間違いない。
表現者は、自らが生み出しているものが「フェイク」、「作りごと」であることに常に自覚的だ。
そして、表現者は常時、批評者や権力者、嘲る者どもの視線と干渉と中傷に晒されている。
だが、そのままに蹂躙され、愚弄されるわけにもいかない。
表現者には、自らの創作物によって世界と観客を「変えられる」との自負と確信があるからだ。
(そういえば、ベルイマンは当初、『仮面ペルソナ』に「映画」というタイトルをつけようとしていたと言われる。あの映画もまた、ベルイマンの自分語りの一環ということだ。)
即ちこれは、魔術師一座に仮託した、「映画製作の現場の戯画」でもあるのだ。
実のところ、僕は『仮面ペルソナ』と立て続けに本作を観たのだが、両者はまったくジャンルの違う似ても似つかない映画であるにもかかわらず、想像以上に「そっくり」な要素で構成されていて、そこはちょっとびっくりした。
ベルイマンという監督が、「とあるテーマ」を手を替え品を替え追求しつづけるタイプの人だということを痛感させられた次第。
まず、主人公が「自ら話すことを辞めた」存在であり、それはおそらく「神の沈黙」ともかかわりがあるということ。
主人公と向き合うことで、相手が勝手にさまざまな内面を吐露しだして、あたかも「触媒」に触れたかのようにその人のありようをさらけ出してしまう流れ。
閉ざされた空間内で、優越者(女優/町の権力者)と劣等者(看護師/奇術師一座)のあいだで繰り広げられる、壮絶なマウント合戦。
最初は圧倒的に優勢な優越者サイドに、劣等者が一矢を報いるものの、その上下のヒエラルキーは最後まで変わらないという展開。
重要な通奏低音としての、「死者復活」のキリスト教的幻想。
喪われた子供と母親という『仮面ペルソナ』の裏テーマも、すでに本作で、領事夫人の抱える問題として扱われている。
何より、それぞれの登場人物が、みずからを守ってきた偽りの「ペルソナ」をはぎ取られて、自己の本質と向き合うことを強いられるという内容そのものがそっくりである。
本作の場合、魔術師は「付け髭とかつら」で武装し、あえて声を出さないことで神秘のヴェールをまとう「作られた存在」だ。武装解除した彼は、本当に気の弱そうな、ただの物乞い同然の貧民にすぎない。男装の麗人である妻もまた、装いを解けばただの若くか弱い女性に戻ってしまう。
いかにも魔術師。いかにも男装の麗人。
その仮面が良く出来ていれば良く出来ているほどに、はぎ取られたときの衝撃も大きい。
ちなみに、この二人以外の旅芸人サイドの登場人物は、容貌やキャラに変化はない代わりに、全員に「ジョブチェンジ」もしくは「属性チェンジ」が発生しているのは、なかなか面白い(御者&メイド→結婚、魔女&口上師→廃業)。
一方で、権力者側も、豪華な衣装やかつらによってごてごてと武装してはいるものの、夫婦関係に問題をかかえる、ただの卑俗な存在だ。特に本作において「打倒される名探偵」キャラを担う医師は、圧倒的な恐怖に追い詰められて、その「ペルソナ」を威勢よくはぎ取られることになる。
中盤までは、ちいさなエピソードの積み重ねで構成され、コミカルで艶笑的とはいえ、基本は文芸映画っぽいテイストで終始するが、マジックショーの内覧から、解剖、復活までの流れは、ふつうにミステリーとしてもサスペンスとしても、超一級品だ。
一座の連中が目配せしたりしていることから、どうやら「何かある」ことは分かるのだが、それがオカルトなのかトリックなのかが終盤まで分からないところも、なかなかエンタメとして憎い。
ただ、ミステリー的にいうと、たとえ魔術師としての扮装を死体に施したとしても、マックス・フォン・シドーとアル中役者の外見は容姿・体型ともあまりに違いすぎる。よって、眼球や脳みそまでほじくり出して見せた医者が、容貌の相違に気づかないとはとても思えず、この死体入れ替えトリックはしょうじき成立しがたいと思う。
だからこそ、ラストでもう一回「生きている酔っ払い」が登場して、観客「だけ」を驚かせて終わるというのは「粋」だと思ったんだけどなあ……(笑)。
結局、魔女の婆さんの媚薬は明らかに効果を発揮したようだし、不吉な予言もがっちり当ててきているわけで、ベルイマンが必ずしも単純に科学の側に立って、迷信もろともキリスト教を断罪し、葬りさろうとしているようにも思えない。
迷信に救われる者もいれば、迷信に滅ぶ者もいる。
科学に救われる者もいれば、科学に滅ぶ者もいる。
最終的に、そのどのあたりに軸足を置くかは、われわれ一人一人にゆだねられる。
たぶん、そういうことだろう。
深遠なテーマをしっかり扱いながら、巧みにコメディを偽装してそれに成功し、同時にミステリーとしての仕掛けもうまく機能している。本当に良く出来た映画だ。
ま、「ジャンル」って概念自体もまた、「映画」のかぶらされる「仮面(ペルソナ)」に過ぎないって話なんだろうけどね。