「計算づくの二重性」ホームワーク 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
計算づくの二重性
子供が一人ずつカメラの前で「宿題」にまつわる質疑応答を行うというミニマルなリズムが飽和しかけたまさにそのとき、ふとした転調が差し挟まれる。子供ばかりが映し出されていたカメラの前に小太りの中年男性が現れ、自身の教育論を開陳しはじめる。それを合図に素朴なドキュメンタリーのミニマル構造は徐々に崩れ落ちていき、にわかに小児教育批判の色調が強まる。
撮影クルーに暴力を振るわれるのではないかと勘違いした子供が泣き出すカットはとりわけ印象深い。彼は教員によって日頃から暴力を振るわれており、それゆえ大人というものに対して異様なまでの恐怖と猜疑を抱くようになっていた。イランの小学生たちは暴力の予兆をちらつかされながら、こうして日々大量の不毛な書き取り問題に取り組んでいるのだ。
キアロスタミの批判的眼差しは小児教育のさらに外側へと向かっていく。子供たちが校庭で聖典を復唱するシーンでは、一所懸命に聖典を読み上げる教員と、それを歯牙にもかけず騒ぎ散らす子供たちとのギャップが映し出される。そのとき「子供たちは大人のありがたい話をまったく聞いていません」と大人側に傾斜したかのようなナレーションが入るものの、そこに「馴致されきった大人」と「自由闊達な子供」の明暗が描き出されていることは明白だ。過激な小児教育の根底にはイスラム教の厳格な規範意識が影を落としているのだということを、キアロスタミは生の映像のみを用いて表現してみせた。
イランは標準的なイスラム国家がそうであるように、小説や映画に厳しい検閲をかける。したがって文芸がそこで延命していくには、陳腐なおべんちゃらを講じるか、あるいは処罰覚悟で爆弾特攻を仕掛けるしかない。しかしキアロスタミはそのあたりのさじ加減が非常に巧い。面従腹背というか、作品の中に意図的な二重性を構築する術に長けている。
本作は額面通りに受け取れば単なる素朴なインタビュー集に過ぎない。確かに教育批判的な側面はあるけれど、検閲するほどではない。しかしこれらをインタビューの集積ではなく一つの作品として鑑賞するとき、要するに作家による「編集」の結果物として捉えたとき、本作はれっきとした宗教批判映画として立ち現れてくる。
さらに、よしんば検閲側が本作の批評性に気付いたとしても、その具体的な証拠を画面の中から見つけ出すことはできない。「証拠」なるものはモンタージュが喚起する想像力の世界に属しているからだ。彼らの鬱憤は「理由はないけどなんかムカつく」程度の位相を滑稽に旋回し続け、どこにも辿り着けない。
キアロスタミの作品はどれも本当に計算し尽くされていて思わず舌を巻いてしまう。「編集」の、すなわちフィクションの意義と可能性についてこれほど深く考えている監督は全世界を見回してもそう相違ないのではないかと思う。