冬の旅のレビュー・感想・評価
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モロッコの出稼ぎの人達が同じ事やったら、どんな映画になる?
自虐的『雌犬の娘』は、ゆるキャン△を甘く見ていた。
僕も学生時代にこんな事やっていたが、映画にはしてもらえないよね。
この映画のこの主人公が、こんな酷い目にあったのは、『フランスの貧困層の存在』と鑑賞者は見るだろうが、明らかに違う。それは想定内なんだが、だいたいの鑑賞者は、この少女の不器用さを哀れに思ってしまう。映像の魔術なのだろうが、そこに作為をどうしても感じる。
僕も同じ様な事を学生時代にやっていたが、『反感を買う』だけだった。しかし、反対に自由と孤独は満喫出来た。そして、それが楽しかった。つまり、『孤独も自由も半端に味わうものではない』と直に普通の人間なら分かるからだ。それをこの演出家は分かっていない。
『実話に基づく』とか演出家が生きていれば話すだろうが、複数の証言を組み立てて作った事じたい、フィクションの要素になってしまっている。つまり、作られた人の不幸で興行だけを狙ったストーリーと言う事になる。
この映画ならカンヌ国際映画祭は狙えるね!
そして、鑑賞者は学習した。カンヌ国際映画祭とはこう言った作品を作れば良いと。
タイトルなし
妖精業も楽じゃないというか、妖精も人間であれば臭うし死ぬのである。/感電のシーンはちょっと笑った。/『WANDA ワンダ』ぽくもある。あと、有吉佐和子『悪女について』も思い出した。
自由ということの不自由さ
自由でありたいと突き詰めれは突き詰めるほど、自由のようなものに心は捉えられてる手を伸ばしたその先で自由は雲を掴むように遠のく。
そして,もともと住んでいたところからどのくらい離れていたのかわからないけど、自由を求めて彷徨うにはその行動範囲があまりに狭くて堂々巡りにハマり,最初から見ていた農地の溝にて事切れてしまった。あまりにも痛々しくあまりにも鮮明な若さ、自由への渇望、やがてくる絶望。
農具や、農耕機や、固く乾いた土やモロッコ人移民労働者とら剪定する灌木。オブジェとしてアップで捉えられるものはあまりにも冷たく硬質で、自由を求める魂も肉体もあまりにも脆く弱々しい。
樹木の名前忘れてしまったが,毒素に侵された木を伐採する、立ち枯れる木もまた弱い肉体である。
木のお医者さんである学者さん(女性の教授)との出会いがモナと社会,世間をつなぐ心地よいひとときをもたらした,その後学者さんにおこる衝撃の出来事も,驚いたけど無機的ではない有機的な帰結。
お屋敷の持ち主の老女との楽しいコニャックのひとときも刹那的で老女もなに不自由ない富裕の暮らしをしながらこのコニャックとモナとのひとときを最後に老人ホームという不自由に追いやられるからモナと意気投合してのだろう。お屋敷の家政婦をしてボーイフレンドともなんとなく不安定な女性も,自由に生きるモナに惹かれてしまう。
羊飼いの家族の哲学者の男もやがて楽して生きたいモナに苛つき無口だが妻の方が需要していたように見える,他の家でも、学者さんほどではなくても女性たちはそんなに厳しい態度ではないように思えてそこも大事な目線かなと思う。
最初は威勢が良かったモナ。肌身離さず食料や大事なものを入れているバッグにはMのイニシャルが、社会とのつながりかってあったなんらかの家族とか自分の名前とか断ち切り難い関係性を見ているものに常に意識させる。
自由とは孤独なものだが,孤独は自由なのか。不自由な自由を頑なに強情に追い求める強いモナ。
自由がどんどん不自由になり、貧困の束縛となる。
深くにも男に襲われるところから,ローリングストーンのように転がりはじめる、このシーンで、若い男子がやはり究極の自由を追い求め挫折し絶望と死に至るInto the wildでヘラジカをしとめるが処理に時間がかかりうじが湧いて食べることもできず体力だけが無駄に消耗し絶望するシーンが想起されそれから頭を離れなかった。
この映画が公開された当初は見ていなかった。もっとちっさくて不甲斐ない感じだけど若さゆえ同じことを考え同じような行動もしたし、妄想もした。あのころこれを見ていたら行動は妄想となり妄想は活力となり、逆説的に不自由を選択して自由を部分的に享受しただろう。これをみなくてもそのような疑似体験や現実と非現実日常と非常の境界を自由に行き来できるものはさがせばたくさんあった。
今も不自由の自由を甘んじて生きる。自由の不自由ほど苛烈ではないから、、、
「冬の旅」の、タイトル通り、主人公の少女モネが冬にテント生活をしな...
「冬の旅」の、タイトル通り、主人公の少女モネが冬にテント生活をしながら旅をするおはなし。
原題をそのまま訳すと「家もなく、法もなく」らしい。たしかに、序盤は、モネは家もなく、法にも縛られず自由に生きているように描かれる。
だけれど、どんどん行き詰まって、最後は死んでしまう。モネは家がない代わりに、法に縛られず自由に生きていたはずだった。
死んだあとには、国家の象徴ともいえる警察が彼女の身体を引き取りにくる。旅先で出会った人たちが、それぞれ優位な視点で彼女のことを証言する。ここには、モネの自由など、存在しない。
モネ自身の視点が抜け落ちた「証言」によって、この映画(彼女が死ぬまでにたどった記録)は構成される。警察が気にしているのは、事件性があるのか、ないのか、だけであり、それを判断するための記録を取ることが目的であろう。彼女はなぜ死ぬほどの過酷な旅をしたのか、彼女の心情、ホームレスが増えていく社会背景などは抜け落ちてしまう、
当事者の証言は欠落していて、他人の言葉のみで再構成される「モネが死ぬまでの旅の記録」はどこまで事実が担保されるのだろうか。事実の記録のようでいて、実はそこに真実はなにもないのかもしれないということを思ったりする。
モネはいろいろなところを旅しているように見えるのだけれど、過去に出会った人たちと、ニアミスする場面が多く描かれるから、遠くまで移動しているようで、実は、近くをぐるぐるしているだけなのかもしれない。どこにでも行ける自由さがあるようで、どこにも行けない閉塞感を孕んでいる。それはきっと、物理的な移動のことだけではない。閉塞感のある社会、そこで生きづらさを感じている人間たち、のことも含めて表現されているような気がしている、
冬の寒い朝、南フランスの畑の一角でひとりの若い女性(サンドリーヌ・...
冬の寒い朝、南フランスの畑の一角でひとりの若い女性(サンドリーヌ・ボネール)の死体がみつかる。
事件性はなく、風体からも野宿の旅行者、もしくはホームレスのよう。
彼女に出逢ったというひとびとの証言を綴っていくと、彼女の人生が垣間見えてくる・・・
といった物語。
冒頭から、死体があらわれるが、ミステリではない。
彼女の人生の、ミステリアスな側面を描くという意味でのミステリでもない。
ただただ、人々が構成する社会から意図して逸脱した若い女性の物語。
映画は、彼女の過去と、彼女の人生と少しばかり知り合ったひとびとの証言で構成されている。
ある意味、ドキュメンタリー映画のようなのだが、アニエス・ヴァルダ監督の構成力が恐ろしい。
彼女の死体が発見されたのち、過去へと遡るのだけれど、彼女の行動は大過去から直近へと一方向でありながら、証言者たちはの登場は必ずしも一定ではない。
だからといって、観る側に混乱はもたらさない。
映画が持つ、時系列的性質の解体と再構築のように感じられます。
この解体と再構築がもたらすのは、鑑賞する側への「委ね」の大きさなのだけれど、それは彼女の行動の是非ではなく、彼女がとる非日常的行動の意味合いで、彼女の存在はある種の「稀れ人(異世界からの神)」のようにも見えます。
自由でありながら、自由でない。
ひとびとを縛している「社会」からの逸脱は、自由のように見えて、生きることには不自由。
でありながら、幾人かのひとびとからは「憧れ」のようなまなざしを向けられる。
唯一、彼女を「逃避者」と語るのが、山羊飼育と農業を営む哲学者である点が興味深いです。
観はじめたあたりはそれほど面白いわけではないのだけれど、彼女の存在を「稀れ人」ではないかと思ったあたりから、俄然おもしろくなりました。
演出では、エピソードのつなぎで、彼女の移動シーンを横移動でとらえているショットで、彼女の移動にあわせてカメラが横移動(右から左へ)するのですが、最終的には彼女を追い越し、背景である風景なり何なりを映し出すところ。
彼女を超えて映し出される風景なりなんなりが、観ている側に、どれほど接近するか・・・
このあたりにヴァルダの非凡さを感じました。
とはいえ、彼女に共感できるかどうかは別。
集団がつくる「社会」という現実からの逃避で得る自由には、「生」に対しても責任が生じるということで、そんな責任は負いたくないので現実のなかで煩悶するのか平凡人ということなのかもしれません。
原題は「家もなく、法もなく」です。
救えない者もいる、この世界
主人公に一切共感するところを許さない傑作!
過去にトラウマを背負っているわけでもなく、ただひたすら本人の資質や考え方が退廃に向かわせる。まわりが手を差し伸べても、救えない人間というものは確かにこの世界にいる。残酷な世界が確かにあるという悲しさが染みる。
そして中にはその堕落と自由に焦がれる人間もいて、それもまた否定できない。
幸せとは何か、あるべき人生とは何かを人間は浅はかに判別できない。ただ彼女と交わった人々の印象に残るだけなのだ。
豊かな生を喜ぶ村の祭りから、異物そのままに逃げ出す彼女がひどく印象的だった。
素晴らしい作品。
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