日の名残りのレビュー・感想・評価
全14件を表示
カズオイシグロ小説の映画
原作を先に読んでから鑑賞。
原作を読んで暫く経ってから鑑賞したので小説を思いおこしながら。
主人と執事で話は絡みつつそれぞれでストーリーが静かに展開していく。
有能は執事であり続けた彼だけれども「個人」としては幸せであったのだろうか。
私を離さないでもとてもよかったがこちらもよかった。
彼女の気持ちを考えると切なすぎる
執事(主人公)の彼女に対する態度がもどかしい。でもいい映画です。彼女は何度か「好き」のサインを出しているのに、執事のほうは仕事にあまりにも忠実すぎて、本当に彼女のことが好きなのかも観ている我々もわからなくなってしまう。でも、好きだったんだろう。彼女から結婚退職の話をされた時、一応平静を保ったように対応してはいたが、ワインボトルを落としてしまったのはその表れだったのではないか。結局20年経過しても、彼の態度は変わらなかった。最後、バスに乗って別れた彼女は泣いていた。2度目の別れ、多分今度は2度と会うことはないと思って。
執事と言う職業とその時代
執事やメイドなどの職業は屋敷に住み込みが前提になっていて、自由がきかない。その中で、世界情勢の話をしている主人たちの話も聞かないようにし、世間知らずになっていっている自覚もなく、自らの意見など考えたこともない。執事と言う仕事に専念したばかりに自分の幸せを考える暇もない。その時代の特殊な不自由さが全編の不安感のある曲で表されている。(ずっと何か起こるのかしらと不安になってましたが、淡々と物語は進む、笑)
格調高き悲哀と虚無感
ただでさえ如何なる時も人前で感情を表さないと評されている人物が主人公ですから、本当に注意深く観ていないと、心の機微を見逃してしまいます。
また観れば観るほど、考えれば考えるほど、色々なことに気付かされる内容です。よって感想をまとめるのに苦労する作品でした。
Lord Darlingtonの館に長年勤める執事Stevensの現在と約20年前の回顧録。
要人を招いて小規模の国際会議を開ける豪邸は、現代で言うなら高級ホテルの役割を果たしており、使用人達はさながら住み込みのホテル従業員といった感じ。
ちなみに家長に仕えるbutlerは男性使用人達を、女主人に仕えるhousekeeperは女性使用人達を統括する役職で、butlerとhousekeeperは対等、もしくはbutlerが少し上とのこと。
仕事一筋の執事だった父親を尊敬し、自身も完璧な執事として使用人達を取りまとめるStevens。
“A great butler must be possessed of dignity in keeping with his position.”
執事とは立場相応の品格を携え、英国の秩序と伝統を示すべきであると。
そしてその「品位」を維持するために、英国紳士向けの馬鹿丁寧で回りくどく「気高い」会話に付き合える語彙力を習得しているし、私的感情を極力抑えるべく、親の臨終の際も取り乱さずに職務を優先する。
欠員を出して業務に支障をきたす使用人同士の恋愛結婚はご法度なため、若く美しい女性を意識的に避けている。
そんなStevensのプロ意識を支えるのは、生まれも育ちもそして中身も、自分より「遥かに上であるはずの貴族」に、使用人の誰よりも身近に接してどんな要求にも全身全霊で仕える特権と、それに相応しい品格への自負だったと思います。
しかしドイツに宥和的であった Lord Darlingtonは、戦後国賊とまで呼ばれてしまう。戦前なら仕えていたことが自慢にすらなったであろうに、今では面識がないと嘘を付くStevens。
貴族という名の素人政治家は、所詮温室内で国際情勢を討論しているだけで、欧州の現実も、大多数の国民感情や庶民感覚も理解することはない。また、高貴な主人に非の打ち所のない執事という理想に囚われた使用人は、邸内で起きる不都合や不道徳から目を背け、思想も無ければ現実を知ろうともしない。確かに雇い主の指示を無視すれば職を失いかねませんが、現状分析と思考を放棄してひたすら職務に邁進する姿勢は、アイヒマンにも共通するでしょうか。
結局Lord DarlingtonもStevensも井の中の蛙で、戦争により外界に晒されて初めて自らを省みるのです。
KentonやBenn、Cardinalは、Stevensと腹を割って話そうと試みますが、彼から本音を引き出すのは容易ではありません。模範的執事として生きる内に、感情に蓋をすることに慣れ過ぎた彼は、経験ないほど溢れんばかりの想いが募ってようやく、そのやり場に困るのです。父親を亡くしても、信頼する女性の退職を知っても、瞳の奥に僅かな狼狽が宿るのみで、問われれば疲れていると答えるだけ。人として情緒が病的に鈍化しているように見えて、alexithymia (失感情症)かと思いました。
一方で、Kentonは不安定な社会においても善悪の価値観が揺らがず、自身の内面を厳しく客観視できる、比較的感情表現の豊かな女性でした。
初鑑賞時は、彼女がStevensの一体どこにそう惹かれるのかが理解できませんでした(^_^;)。Stevensの回顧録なので、彼にとって都合良く解釈されているのではないかとすら考えました。人として、女性として、必要とされたい願望が特別強い彼女なら、尚更相手からの反応を重要視して恋愛感情を募らせるものと思ったからです。でも観返してみると、KentonはStevensが好きなのだと言うことがよく分かりました。臆病だから辞められないと聞いて、Stevensが口籠もりながらも、彼女がいかに貴重な人材か伝えるシーンがあります。最初は小馬鹿にされて見返してやろうと反発していましたが、仕事に厳しい上に滅多に褒めない彼が働きぶりを認めてくれている、自分はこの職場に必要とされていると知って、とても嬉しかったでしょう。彼女は結婚よりも仕事に価値を見い出している女性です。KentonがやたらStevensにちょっかいを出し始めるのはこのシーンの後です。
可愛い子は見ないようにしてるんでしょ?と談笑する所があります。あの子のこと可愛いと思う?と聞くのは、その男性の好みを知りたい時です。つまり気になる男性にしかこの手の質問はしません。こんなJKレベルの小ワザを意識して書かれているかは知りませんが(^_^;)、KentonがBennにこういう質問をするとは思えません。
Stevensの方はKentonをどう思っていたかと言うと、Bennの前でうっかり本音が出ています。
“I'd be lost without her.”
その直後、ごく自然に取り繕いますけれども、Bennは気付いたと思います。
Stevens Sr. が倒れてもなお、握って離さなかった掃除道具カゴ。その硬くなった指を引き剥がしたのは息子のStevensでした。失職することを恐れた父親を、まるで仕事から解放する暗示のようでした。そして、Stevensが握りしめていた恋愛小説本をその手から離したのはKentonです。物語の中ではない、現実の恋愛へのきっかけが解き放たれた瞬間でした。しかしStevensは何も行動を起こさず…、その後のKentonは落胆して泣いてばかりに(T_T)。
後半にCardinalが、Lordの過ちを正して救うべきだよね!と息巻いている時、StevensはKentonの結婚のことを同時に考えているように見えます。彼女を(も)誤った判断から救うべきなのだと。でもやはり自分の立場なるものをわきまえてしまいます。。
20年後にKentonとStevensが再会する場所は、ちょっとした大人のデートスポット風に見えるんですよね。地元を知るKentonが場所を指定しているはずですから、孫の誕生を知る前に再会できていたら…と考えずにはいられません。Bennのタイミングには恐れ入ります(^_^;)。
終盤にStevensが茫然と浮かべる大粒の涙が切ないです。Bennと同じか、それ以上に、自分もKentonを必要としていたのに、それを伝えられなかった後悔。彼女の本心を受け止められなかった自責の念。
Kentonも別れ際にまた泣きますが…、こうして再会できたのは2人にとってとても良かったのだなと。
結婚せずに同僚としてずっと一緒に働き続けるのが幸せな2人なのか分かりませんが、4回鑑賞したら、もう品格とか気にしないで、来世ではちゃんと結ばれろ!って思いましたね。
結局、Stevensが唯一心情を思い切り吐き出すのは、ワインボトルを誤って割ってしまった時だけでした。
感情を激しくやり取りする恋愛という行為は、人間の品位を損ねるのか…
確かに、花と蜜蜂と小鳥のようにはいきませんね…(^_^;)。
多くの人は一日のうち夕刻を最も楽しみにしているのだと言うKenton。
旅の途中、Stevensがガス欠で困るシーンの黄昏は、それはそれは見事な情景でした。
父親との最期の会話も夕方でした。
必死で走った人生も、折り返して終わりが見えて来た頃が一番美しいものなのでしょうか。それとも逃した数々の好機への喪失感が、生命と時間の不可逆性を痛感させ、湧いて止まらない愛惜により、余命が一層輝くのでしょうか。
心を無にしようとあらゆる感情や思考の流れを麻痺させながら、意思が全くない訳ではないという、Anthony Hopkinsの虚ろな眼差し加減が絶妙でした。
原作とは異なる箇所が幾つかあり、映画の方が、Stevensの掴み所のない哀愁を一層際立たせている感じがしました。
映像も洗練されており、久々に成熟した作品を観て、ずっしりと響きました。
“..... there are times when I think what a terrible mistake I made with my life.
——- Yes, well I'm sure we all have these thoughts from time to time.”
“...... for great many people, the evening is the best part of the day.”
大人だからこその歯痒さか?
近くにいるのに親の死を看取れない、信頼し言葉にしないが相思相愛の女性との別れ。アンソニーホプキンスの主人公は、職務に忠実で「私」を殺してしまった。それは仕事への誇りと責任感なのか? 何か見ていていたたまれない歯がゆい思い。 彼女の涙を見て、彼はこの再会ですっきりしたのか、とても気になる。あの涙をみる限り、後悔の念が押し寄せていたのではないか?
理想を追った英国貴族と没落、そして家主交代という時代背景をからめて奥深い作品だった。
結局どう生きるかなのだと思う
『どう生きるか』
今作のテーマは、これに尽きると思います。
スティーブンスは、自分の人生も周りのことも俯瞰して生きてきて、ラストで後悔の様なものを見せました。人生は一度きり。スティーブンスから、観客は自分の人生を振り返りこれからの生き方に気づかされるのではないでしょうか。原作を読んでみたくなりました。
悲しいまでに己の人生を捧げた執事
アンソニー・ホプキンスが演じる、自我を無くし仕事に全てを捧げる執事は、美しく荘厳な屋敷の主人を訪ねるありとあらゆる高名な人間たちからも高くその仕事を評価される。
しかし悲しいまでに謹直で、誠実で、真摯。
最後の最後まで、愛する人とは結ばれず。
正直、感情的で他人の領域にズカズカ入ってくるミス・ケントンに全く感情移入ができなかったけど、それほどまでしても何も変えられなかった彼の仕事への思い。
というかもう自分でもその束縛を解くことが出来なかったのでしょう。
その忠義心に感心しつつも、悲しい人でもあったなという、ほろ苦いくしみじみとする映画。
よかった
執事が主人公で貴族みたいな富豪の豪邸が舞台でのドラマというのも、バットマンくらいしか馴染みがなくてあまり関心がないのだけど、見ていたら面白かった。アンソニー・ホプキンスが凄腕の執事で、お父さんと2代続いて執事なのもすごい人生だ。控えめにしているのが仕事のせいか、自分が主役にならず、恋のチャンスをのがしてしまう。
後悔は少なめのMy Life
抑制したい大人の恋物語かと思いましたが、どちらかと言うと後悔の物語かなぁ、との印象です。
時代は1930年代、英国貴族ダーリントン卿に使える執事(バトラーと言うらしい)スティーヴンスは、完璧に仕事をこなそうとする人です。思想など個人的な感情は一切抑えて忠実に主人に尽くすのが執事の本懐であると信じて疑いません。父の死に目においてもクールに振る舞い、仕事を優先するタイプです。アナログ版AIみたいな人です、ヘンな表現ですが。
スティーヴンスのご主人・ダーリントン卿はいい人なのですが、なぜかナチスの思想に染まり始めます。ユダヤ人の使用人をクビにするなど結構ヤバくなっていきますが、AI男スティーヴンスはご主人に忠告などしません。なので、ダーリントン卿の周囲はだんだんときな臭い雰囲気になっていきます。
スティーヴンスはかなりオジサンですが、部下のできのいい美女・ケントンにどうやら好かれている様子。一方でスティーヴンスも好意を持っているようですが、AI男なのでつれない態度に終始してます。
で、この作品、現代から過去を振り返る構成なのです。本作における現代とは1950年代。ダーリントン卿はどうやら没落し、卿の館はアメリカ人のルイスさんが引き取り、スティーヴンスはルイスに仕えてます。
この現代パートが本作のキモだと思いました。
このパートで、スティーヴンスの後悔がはしばしに見えるのです。
車がガス欠になり、パブで一夜を明かすスティーヴンス。マスターの息子がダンケルクで戦死した、と聞かされて、スティーヴンスは何かを実感します。
送ってもらった男から、ダーリントン卿の最期を尋ねられると、「晩年は後悔していた」と語っていますが、その後ケントンと再会したシーンで語られる最期とは異なります。どうやらもっと悲惨な最期だったっぽい。
ケントンとの再会の理由は、ケントンをルイスの館にスカウトするためでした。しかさ、孫と過ごす、と言われ断られた挙句、「夫を愛している」と告白され(まぁ当たり前だと思いますが)、なんかショックな表情のスティーヴンス。
結局、執事だなんだと言いながら自分を抑えて、つまり自分を偽って生きたことへの後悔が現代パートには通底していると感じました。もし、主人に忠告していれば…もし、ケントンに素直な気持ちを伝えていれば…
決してスティーヴンスは後悔を表現しません。しかし、そのような切ない気持ちが伝わってきました。
最後は明るい兆しで終わっていくため、鑑賞後の後味は清々しいです。高尚で気品ある雰囲気の良作でした。
必要とされる幸せ。必要とするものを手に入れる幸せ。
午前十時の映画祭で。初見です。
アンソニー・ホプキンス主演。「羊たちの沈黙」が'91。翌'92はコッポラの「ドラキュラ」。これが'93。陳腐な表現だが「乗りに乗った時期」に撮られた佳作。この映画には関係ないけど、コッポラの歴史的駄作「ドラキュラ」はゲイリー・オールドマン、ウィノア・ライダーとの共演だったんですね。今思えば豪華。
ストリー的には、当時の英国の政治状況が、ある程度わかっていた方が理解が進むと思う。ヒトラー内閣の成立が1933、ヴェルサイユ条約の軍事条項が、事実上無効化されたのが1935の英独海軍協定と考えると、この物語が展開された1937時点で、ドイツの再軍備容認や水面下での接触は明らかに間違っているし、ドイツからやって来たというメイド(ホロコースト前だがユダヤ人の迫害は始まっていた頃)二人を追い出すってのは人道的にも許し難い。ダーリントン卿は、ほぼ「脳内お花畑」な貴族議員として描かれているが、日本の首相にも、こんな人居たよな、って思ってしまった。ルイスの指摘通り、政治に関わってはいけないアマチュアです。
スティーブンスは屋敷の中から出ない。当時の英国内は、国政的にはごった返しの争乱の時期なのだろうが、そんな世相は映画の中では表現されておらず。執事としての日々は淡々と進みます。ミス・ケントンが密かに寄せる恋心も、知ってか知らずか。人間としての、一人の男としての幸せを求めることなど、毛頭考えずに主人に仕える人生。
仕える主人が変わり、新たな人手が必要になったスティーブンの脳裏にミス・ケントンの名前が浮かび、迎えに行くわけですが、「日の名残り」の中で、彼は「一人の男としての幸せ」を掴み損ねます。ミス・ケントンの口から出て来た、旦那とやり直すことを決めた一言が、スティーブンの心に鉛の様に沈んで行く。「私を一番必要としているのが彼だから」。執事としての喜びもまた、仕える主人に「必要とされること」。彼と彼女の違いは、一人の人間としての幸せを求めたか否かであり、行動したか否か。最後の別れの場面、哀しかった。
現在の映画は、デジタルによる画像処理が施されていないものは無いと言っても過言じゃない。'93当時は、そんなもん無いでしょうね。逆に、だからこそ、画へのこだわりが伝わって来ます。とにかく美しい。どんなカットも、どんな場面も、なんでこんなに惹かれてしまうのかというくらいに好き。
米独仏英の政治家を集めた会議の最後の晩餐会。ドイツからのゲストがオペラを披露しますが、あの構図の中に、誰がどこに立ち、どちらを向き、どんな姿勢を取っているのか。絶対に、緻密に指示してる。絵画を見てる様な気分。スティーブンの興味を引けず、絶望しながら自室に姿を消すミス・ケントンの顔が、少しづつ少しづつ暗がりに消える。なんなの、この芸術品の様な心象表現!スティーブンとミス・ケントンが再会したレストランで移動するカメラと移り込む客と風景。戦後、華やかさを取り戻しつつある英国の情勢の中で、「あか抜けたケントンと年を重ねたスティーブン」を画だけで浮彫にしてしまう表現力。埠頭で「日の名残り」を眺める二人の横顔と背景の奥行の陰影のすばらしさ。なんといっても、バスに乗って去って行くケントンとの別れと、ダイムラーの運転席に戻り、男としての幸せを諦め執事に戻る気持ちの切り替えを表現するヘッドライト点灯までの流れ。昔のイタリア映画みたい、いや黒澤や小津みたい。映画って、こうであって欲しい。と、思いつつ。今の日本映画、画にこだわりなく、雑に撮られた作品が多すぎるよなぁ、ってのも強く感じてしまいました。
ストーリー的には「普通の文芸作品もの」ですが、画像表現と言う点では、これほど素晴らしい映画は無いと思います。
切なく美しく尊厳を揺さぶる
明らかに間違っている瞬間を目にしても、異を唱えることも、自らの主義主張を明示することも控えなければならない、サーヴァント、スティーブンス。その抑圧は、恋愛にさえも当てはまるのか?恋愛の自由さえ、享受することができないのか?そうではないはずである。
ミス・ケントンは彼から自己を消失させた生き方を学ぶが、ベンによって人間らしく生きることの重要性を再認識し、スティーブンスから人間らしさを引き出そうとする。
ケントンとスティーブンスの別れは、あまりにも切ないが、スティーブンスにとって人生の悦びとは、誰かに仕えて真っ当な仕事を完遂することだった。彼には仕えるべき新たな主人がいる。故に恋心でさえも、隠してしまった。だがそれこそ彼自身の選択なのであり、名残惜しい別れは、互いが互いに確固たる意志をもった決断だったといえよう。
アイヴォリー監督の 美意識
ジェームス・アイヴォリーは絵画と音楽鑑賞が趣味で、その片鱗がうかがえる美しい映画となった
ダーリントン・ホールの美しいこと!
(「ハワーズ・エンド」にて家に就いての うんちくを述べている)
執事のスティーブンスは主人の生活を完璧にすべく、生きていて ホールの美しさにもミス・ケントンの心情にも 心を動かされない
ダーリントン卿が ナチシンパの烙印を押された後、次の主人の元で ベン夫人(ミス・ケントン)に会いに行く途中の話である
ホールの外に出て 市井の人々に出会いながら、ダーリントン卿への非難の数々、自分の盲従が 卿の助けにならなかったこと、ミス・ケントンを失ったことを、過去の出来事をフラッシュバックさせながら 理解し始めてゆく
プロフェッショナルに徹するあまり ある意味、自失してしまった執事を ホプキンスが、ミス・ケントンを エマ・トンプソンが演じていて 盤石である
脇を J・フォックス、ロンズデール、クリストファー・リーヴなど 演技派が固めていて愉しい
カズオ・イシグロの原作だが 完全にアイヴォリー監督の映画になっており、
私には やはり、一番の主役は ダーリントン・ホールのように思える
最後の放たれた鳩は、スティーブンスの意識の解放の象徴だろう
執事は (職人が大好きな)日本人のようでもあり、人の良い ダーリントン卿もまた、しかり
二人の失敗は、日本人が陥り易いものにも 思える
(真摯にやっているのだが… )
イギリスと日本、同じ 島国で 住民は意外とナイーブなんじゃないだろうか? と、思ったりもした
(支配階級は別)
彼は回想できるだけの記憶を保持している。
ミス・ケントンに心底同情しますよ。仕事に全てを捧げることだけが人生という人に恋してしまった訳ですから…悲しいね。
あれ、スティーブンスの回想なんだから彼は全部覚えてるんだよね?労働者に政治は無理だと馬鹿にされたこととか。怒りも知ってるし、おそらく質問への意見も言えた。でも「仕事」での正解を優先させた。執事として。
ミスケントンが、結婚するって言ってむしゃくしゃしてワインを盗んで飲もうとしたものの割って、シットってゆうてたし。好きやってんよね?きっと。そう思いたい。
ダウントンアビー好きなので楽しく見られます。
若いヒューグランドは美しいですねー。
時代背景は第一次世界大戦後ですね。
ダウントンアビーやらナチスドイツが題材の映画やら、ダンケルクもウインストンチャーチルも見たしで、結構よく分かりました。
20世紀前半のイギリス社会に興味がないと、きついかなー。
京都シネマ名画リレーにて。500円で鑑賞。
二週間前に同じく名画リレーでやってた「ある晴れた日に」は見に行けず落ち込んでましたので、「日の名残り」はがんばった!
多分カズオイシグロ原作だから、お客様さん集まってました。ノーベル賞の広告効果は絶大ですなぁ。ノーベル賞につられたと見られる方々はいびきかいて寝てはりました。
時代の変化に大人の愛の変化を見る。
日本人の中には否定できないヨーロッパ貴族への憧れがある。本作に登場する英国貴族の重厚かつ華麗な生活様式に魅了されてしまう。広大な敷地にある屋敷、豪華な美術品、上質で歴史ある家具・調度品、見事な彫刻のほどこされた壁等の、画面に現れる小物1つ1つにも目を奪われる。さらには狩猟や晩餐会などの華麗な催し物・・・。これら1つ1つが見るものをひきつけてやまない。しかし本作の特異で面白いところは、それら貴族の生活を使用人の目線で描かれる点だ。今ではほとんど存在しなくなった「執事」というプロフェッショナルな職業を通して、新聞にアイロンをかけたり、テーブルセッティングに1mmの狂いもないように定規を使うなどの、今まで知る機会のない使用人の日常生活がとても興味深い。1つの屋敷にこれほど大勢の使用人がいることに驚かされる。
物語は第二次世界大戦を挟んだ30年代と50年代の様子を時系列を無視して語られる。戦争という世界的に大きな出来事を、「ダーリントンホール」という1つの屋敷に集約させ、それによって起こったさまざまな「変化」が的確に描写されている。執事と女中頭のラブストーリーを核に、国際情勢、階級差別、時代の移り変わり等、様々な要素をとりまぜた豊かな人間ドラマである。
「執事」は自分の意見を持ってはならない・・・。この信念のもと、完璧なまでに(時には冷酷と思われるほど)感情を表に表さない主人公に、対立することでしか近づけない彼女。立派な大人の2人が、まるで初恋にとまどう中学生のようだ。2人が最も接近するのは、本を取り合うというたわいもない行為。だが、秘められた感情は昂ぶり、触れ合った指先は震え、熱いまなざしは絡み合う。最高にセクシーなシーンとなっているが、その刹那、男は自分の感情に驚き怯え、女に「部屋を出ていってくれ」と言ってしまう。このもどかしさ、はがゆさ。どこまでも不器用な2人が、愛らしくも切ない。
本作はよく悲恋物語と称されるが、私はそうは思わない。たしかに、女は、心を開かない男にあてつけて、他の男と結婚し、屋敷を去っていく。彼女のいない20年の間に、主人はヒトラーに加担した「非国民」とされ、失意の中死に、貴族の伝統を知らないアメリカ人の富豪が新しい主人となった。世の中は確実に変化した。そして彼の中にも、「確実」に変化がおきたのだ。
自分の間違いを正すために、彼は20年ぶりに彼女に会いに行く・・・。不幸な結婚に疲れきった彼女と、今度こそ「執事としての人生」ではなく「自分の人生」を歩むために。
しかし、彼女は再び夫の元へ戻っていく。だがそれは別れではない、始まりだと私は信じる。最後の握手に、確実に繋がれた手に、そのたった一瞬のふれあいに、ただそれだけで彼の内に凝っていた「愛」や「罪の意識」が浄化されたのだ。私はその、ほんの一瞬握られた手に、このもどかしい大人の愛の成就を見た。
窓から放たれた鳩が、広大な屋敷の上を飛んで行くラストシーンに、新しい時代=新しい人生への希望を信じられ爽やかな気持ちにさせてくれる、文芸映画の逸品。
全14件を表示